2月12日(日)、「第7回はままつグローバルフェア」が行われました。午前中行われた「フォト・ストーリーテリング『写真で語る私の歴史~これまでの私とこれからの私~』」も、第3回となります。
2016年2月「ペルーと日本を行き来しながら育ったマイシャさん
~なぜ私はここにいるのか。私は未来に何をつなぐのか~」
2015年12月「浜松市『外国人住民によるフォト・ストーリーテリング』
今年の出場者は次の方々です。
1.大塚 千賀代(ブラジル・女性)
2.松下 パンティパ(タイ・女性)
3.岡部 デリア(ペルー・女性)
4.五藤 幸来(中国・女性)
5.中里 ユキエ(ブラジル・女性)
6.フジサキ アキコ アイラ(フィリピン・女性)
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この「写真で語る私の歴史」というイベントは、出場者の用意した写真、語りをもとに、日本人のサポーターとともに「フォト・ストーリー」を作り上げていくというものです。今回は「浜松版地域日本語教師養成講座」のカリキュラムの中に「写真で語る私の歴史」をプロジェクトワークとして取り入れ、浜松フェアのイベントに参加しました。何回かの講義、勉強会を経て、また各ペアが、さまざまな対話を重ねながら「8分間のストーリー」を作り上げていきました。
実は、この日本語教師養成講座には、中国出身の白皓(ハク ヒカリ)さんが参加していました。そして、プロジェクトワークとして「フィリピン出身のアキコさん(フジサキ アキコ アイラ:17歳)」のサポーターをすることになりました。中国出身の白さんは、幼い時にご両親と一緒に来日し、いろいろな経験をしながら成長しました。会社勤めや日本語教師を経験した後、大学院に進学し、「地域日本語教育にも関わりたい!」という思いから、この養成講座を受講することにしたのです。
「アキコさんに寄りそうことで白さんはどんなことを思ったのだろうか。どんな学びがあったのだろうか」と、私は白さんの体験に大きな関心を持っていました。そこで、今回は「写真で語る私の歴史」のスピーチを取り上げるのではなく、サポーター役を務めた白さんにレポートを書いていただきたいと考えました。そして、今日、白さんから素晴らしいレポートが届きました。
これから記すことは、美しい話ばかりではなく、私の弱い部分や至らなかった点も
多々書いてあるため、皆さんにこれを読んでいただくことに少し躊躇もしましたが、
それでも、学びのプロセスとして、正直に記したいと思います。
白さんは、まずは自分自身の体験を記し、それからアキコさんと向き合った時間を熱い思いを持って、しかも客観的に振り返りながら書
き記してくれました。レポートを読みながら、私は胸が熱くなりました。集中講義でともに過ごした昨夏の4日間。今でも白さんの熱心な姿が目に焼き付いています。だからこそ、「ぜひプロジェクトワークでの学びについて記してほしい」と思ったのです。では、どうぞじっくり白さんのレポートをお読みください。
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「浜松版地域日本語教師養成講座」プロジェクトワーク
―バディーに寄り添うことを通して―
白皓(ハク ヒカリ:南山大学大学院)
23年前の大雪の深夜、私は成田空港の隅で、ぬいぐるみを抱いて不安そうに母親を見ていました。映像として覚えている日本での最初の情景です。日本語が分からない母親に連れられ、在留資格「家族呼び寄せ」のその家族として、私は来日しました。私は、当時5歳で母語が中国語でした。その後、新潟市の公立小学校に入学し、大学卒業まで日本で育ちました。今、28歳の私の第一言語は日本語と中国語です。中国国籍の破棄、日本国籍を取得するまでの無国籍状態、名前の変更、中国人の両親がいる家庭と、日本人として日本語学校で勤務すること。大人になってからもアイデンティティー・クライシスと戦っていました。言葉が、思考が変化する度に、周囲の大人や社会全体の「◯◯人」という言葉を聞いて、心に黒い影が出来ていったのは確かです。アイデンティティーにコンプレックスを抱えていました。
中学にあがると同時に、自分が中国にルーツを持つことに蓋をして「白川ひかり」という通称名を
使い始めました。日本人に同化して生きていくことで、自分を守っていました。ルーツを見ないふりをして。言語がこんなに出来て日本人と同じなのに、なぜ周りの人々は「◯◯人」と日本人を分けて考えるのか、国籍が異なるだけで、なぜこんなに偏見や声のない圧力を感じるのか、といつも打ち明ける場所もなく、やるせない気持ちと黒い影を胸に抱きながら、大人になっていきました。
1980年代はそうではなかったのでしょうが、今、日本と中国の関係は残念ながら、決して良いとは言えません。大人になった今であれば、コンプレックスを抱えた要因にマスメディアから発信される政治的な影響や社会的イデオロギーがあったのだと分かります。しかし、それでも今もなお、初対面の人に「両親が中国人で5歳に来日した」と打ち明けることに戸惑いや躊躇をすることがあります。「中国」と聞いて、ネガティブなイメージを持つ方々が少なくなく、そして何より、自分がその一員でもあったからです。そんな矛盾と葛藤を繰り返し、中国と日本を行き来しながら、私は今日まで生きてきました。
日本語教育では、「日本人日本語教師」と「外国人日本語教師」の役割分担をすると良いという意見があります。しかし、世の中には、国籍・立場・セクシャリティなど、白と黒できれいに二分できないものがあると思います。そしてそれが多様性なのだと思います。そうしたものは、グラデーションであり、間には違う色が幾通りもあるのではないでしょうか。私は、そのグラデーションの一つです。そして、浜松で暮らすそのグラデーションの一つの色は、同じ地域に暮らすグラデーションの中の他の色の役に、何かの力になりたいと思いました。本稿は、嶋田和子先生にお話をいただき、平成28年度文化庁委託事業「浜松版地域日本語教師養成講座」のプロジェクトで、浜松在住でフィリピンにルーツを持つ17歳の少女のバディとして関わった私の内省と学びのプロセスを記したものです。
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HICEのチーフコーディネーター内山夕輝さんから、同じ外国にルーツを持つ彼女を紹介されたのは、2016年の年末でした。なかなかプロジェクトのバディが決まらなかった私は、ぜひ一緒にやってみたいと思いました。名前はフジサキアキコアイラさん(通称、アキコさん)です。私達のワークは、発表前の最後の数週間に、まるで空を登っていく龍のような、あるいは向こう見ずな若者が疾走する、荒削りで無鉄砲な突進力に包まれ、通り過ぎていった気がします。今振り返ると、アキコさんの心の中に、「やりたい!」という青い闘志が見えて、私の心に引火したのではないかと思います。それまで、それぞれ違う道を歩いていた二人が一つになった、という気持ちがあります。
最後の数週間、私たちは、昼や夜、2人の時間が合う時があれば、時間を作りワークを進めていきました。私達の秘密基地は、浜松市の南部協働センターでした。その頃には、もう出会ったばかりの頃の「できる範囲で頑張ろう」というわたしの弱腰な気持ちではなく「『彼女と一緒に』ストーリーを作り上げたい。楽しい。」と思う熱い気持ちが生まれていました。原稿を作っては、直して、また話して…。場所をアキコさんの家に移して、深夜までパワーポイントを作って、また話して…。そんな繰り返しの日々の中、パワーポイントと原稿が出来ていきました。
発表原稿とパワーポイントは、2人のプロセスが形になったものです。そして、発表は、応援し見守り、発表を聴いてくださった皆さんとの大切な時間でした。「2人でいる時間
を大切にするかどうかは、自分次第、気持ち次第」。私がそう思うのには理由がありました。確かに私とアキコさんは、同じ、外国にルーツを持つ子供として育ったという共通点はありましたが、実際の日常生活レベルで、中国とフィリピンコミュニティが触れ合う機会は決して多くはないと思います。それは、浜松市という外国人集住都市でも例外ではないのではないでしょうか。そして、この点において私とアキコさんは、日の丸印の白いお皿に入ったトマトとレタスだったのかもしれません。トマトとレタスがおいしいサラダに生まれ変わるのに、途中のプロセスは決して順調とは言えませんでした。これから記すことは、美しい話だけではなく、私の弱い部分や至らなかった点も多々書いてあるため、皆さんにこれを読んでいただくことに少し躊躇もしましたが、それでも、学びのプロセスとして、正直に記したいと思います。
私とアキコさんは、それぞれ内山さんから紹介を受けた後、すぐにLINEやSkypeでコンタクトを取り合い、何度かやりとりもしました。はじめのうちは、幸先の良いスタートだと思っていましたが、その後お互いの時間が合わず、そしてなかなか連絡が取れないまま時間が過ぎていきました。今思うと、まだまだ私は「本気」ではなかったのだと思います。「1月上旬の中間発表前には、なんとか間に合わせたいな」と思っていたものの、それは、どちらかというと、アキコさんのストーリーをサポートするというよりも、課題を達成することや結果にばかり目が行っていたのではないかと、今では思っています。
しかし、中間発表はおろか、年明け以降、全く連絡が取れない期間が続いていき、私は「もういいや」という怒りや無力感にも似た気持ちが芽生えていきました。そして、諦めそうになっていました。もちろん、どこかで連絡がくることを待ち続けていたことは確かですが、その気持ちもいつ、どこでふっと消えてしまうか、分からず、そんな不安定な状態が一定期間続きました。あってはいけませんが、一つの感情が生まれていました。「バディに対する不信感」です。あきこさんのことで、悩んでいた時、私は内山さんに相談したことがあります。内山さんはその時「信じましょう!」と強く言ってくれました。その時の言葉がなければ、私はいつまでもうじうじネガティブなことを考えていたのではないかと思います。半ば疑う気持ち、半ば信じる気持ち、両方の気持ちを混在させながら、ひたすらアキコさんから連絡が来ることを待っていました。途中で、愚痴を聞いてくださった同じ講座受講生の皆さん、あの時はありがとうございました。
「信じて待つだけしかできない」、憂鬱で不透明な期間を抜け、これまでないほどに気持ちを燃え上がらせてくれたのは、他でもなくアキコさんの存在でした。きっと神様がい
るのか、縁があるのか、想いが届いたのか、分かりませんが、本番数週間前、私は偶然見学していた日本語教室で彼女を見かけたのです。その時の気持は今でも忘れません。『絶対に離さない』でした。少し、恋愛に似ているようでした。それからの日々、私は「自分の本気が伝わるよう」「彼女との関係を築いていこう」と、積極的にコンタクトを取り続けました。2人をおいしいサラダにしてくれた、魔法のドレッシングは、こうした気持ちと姿勢だったのだと思います。
発表当日の夜、私達はまたいつものように、南部協働センター1Fのソファで、2人静かに話をしました。連絡が取れない期間について、聞いてみました。「考えてたの。やるかやらないか。でも…やると言ったのに、やらなかったら…だめでしょ、先生。失敗するのが怖かった。だから…どうしようか考えてて。でも本当に良い機会と思う。ありがたい(笑顔)」と言ってくれました。彼女の言葉や、失敗することが怖いという気持ちは、聞いていてよく理解できました。それでも、最後に「やる」と決めてくれたことに、「ありがとう」と思っています。
私は、とても反省しています。自分が途中で、諦めてしまおうと思っていたことを。しかし、あの音信不通だった期間、内山さんの言葉を信じて、そしてアキコさんを信じて「待つこと」を決めたことは、結果として必要なことであり、学びとなりました。教育に携わり、同じような境遇がある方も多くいらっしゃるかもしれません。その時、自分がどのような態度をとっていたか、振る舞っていたかを振り返ることは、目を背けたくなるけれども、とても必要なことだと思います。「人のことを批判する前に、自分はどうだったのか」と。
最後にプロジェクトを通して、得たことを3つ挙げたいと思います。一つ目は、バディ2人で作った世界でたった一つのストーリーです。
そこに優越はなく順位もありません。彼らの語りの背景にいる幾人もの同じ想いや境遇を経た外国にルーツを持つ方々、その声を聴くことが最も大切だと思っています。二つ目は、目標に向かって熱中する姿勢です。いくつになっても、「今」を楽しみ熱くなれることがある。青春は、何歳になっても続けられるものだと感じました。最後は、『誰か』を想う気持ちです。『誰か』は、バディだけでなく、それを想いプロジェクトを企画・運営してくださったHICEの皆さん、講座を見守り続けてくれた坂本勝信先生と嶋田和子先生をはじめとする多くの先生方、そして発表を聴いてくださり、今この記事を読んでくださっている皆さんだと思いました。
【参考①】「浜松版地域日本語教師養成講座」プロジェクトワーク
ーバディーに寄り添うことを通して―
➡ 浜松版地域日本語教師養成プロジェクト:バディに寄り添うことを通して【白皓】
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【参考②】アキコさんのスクリプト ➡ 藤崎明子アイラ ビバルさん発表原稿
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【参考③】白さんのインタビューがYou-tubeで見られます。
https://www.facebook.com/100012356554035/videos/200563387032212/
Youtube
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