ペルーと日本を行き来しながら育ったマイシャさん~「なぜ私はここにいるのか。私は未来に何をつなぐのか」~

浜松国際交流協会では2月14日に、文化庁委託事業の一環として「写真で語る私の歴史~これまでの私とこれからの私」を開催しました。今年はフォト・ストーリーテリング発表に加え、受付も司会も定住外国人が担っていました。

 

今年の発表者は、中国、ペルー、フィリピン(2名)、ブラジル(3名)出身の7名、それぞれ貴重な写真を前に、自らの人生を振り返りながら、過去・現在・未来について語ってくださいました。

1.光城ジャネットマリアさん(ブラジル・女性)

2.冨永結愛さん(中国:女性)

3.村松エンカルナシオンさん(フィリピン・女性)

4.サコ フジサワ クリスティーナさん(ブラジル:女性)

5.エルマー アルバリコ ガバネさん(フィリピン:男性)

6.宮城ウェベルチさん(ブラジル:男性)

7.ロドリゲス ナガオ マイシャ ミラグロスさん(ペルー:女性)

 

 

すべての方をご紹介したいところですが、今回は、ご両親の都合でペルーと日本を行き来しながら育ったマイシャさんの話を取り上げたいと思います。それ

受け付けの4人

受け付けの4人

は、今、小さい時から自分の意思に関係なく2つの国を行き来しながら、人生を切り拓いていかなければならない若い人達、いわゆる「移動する子ども達」が増えているからです。大変な面はたくさんあるとは思いますが、2つの文化を持つことを「すばらしい強み」として、歩んでいってほしいと思います。そこで、ぜひマイシャさんの声をお届けしたいと考えました。

 

そのことをマイシャさんに伝えたところ、快く原稿を送ってくださいました。いくつか見出しを付けながら、ご紹介していきます。

 

 

           ♪   ♪   ♪

 

    【マイシャさんのフォト・ストーリーテリング】

 

皆さん、こんにちは。ロドリゲス ナガオ マイシャと申します。私は、日本出身の日系4世、ペルー人です。今から、私の人生についてお話させていただきます。よろしくお願いいたします。

 

■日本で生まれたマイシャさん~ご両親はすぐにペルーに帰るつもりで来日~

私の両親は1991年に、姉を連れて日本に引っ越してきました。仕事を探すためです。両親が日本にこられたのは、私の母の祖父が過去にペルーへ移民し、

2人の司会者と担当の針山さん2016.2.14

2人の司会者と担当の針山さん2016.2.14

そこでペルー人の女性と結婚し、そこから母の父が生まれ、そうして母は日系3世になりました。両親が最初日本に来たときは仕事の関係で大分に住み始めました。来日当初、両親は日本には長く暮らさないつもりでいました。お金をため、すぐに帰国しようと考えていたらしいのですが、私が日本で生まれたこともあり、数年間日本に残ることにしたそうです。

 

 

■1年間の予定でペルーへ。そしてまた日本に戻り……~大分から浜松へ~

私が生まれてから2年経った頃、少しお金がたまっていたこともあり、私たちの家族はペルーで家を建てるために、1年ほど向こうに住むことにしました。無事に家も完成することができたのですが、家を建てたことで貯金が無くなってしまったので、また日本で働くことにしました。私の両親は1年働いたら戻る計画を立てていたため、姉をおばに預け、私を連れて日本に戻って来ました。

 

私たちは私が6歳になるまで大分で暮らし、その後浜松に引っ越しました。私は、佐鳴台小学校に通い始めました。まだ6歳だったためその頃の記憶はほとんどありませんが、毎日が楽しくてとても幸せな日々を送っていたため、日本にずっと住んでいたいと思っていました。日本での生活が長い私にとっては、母語は日本語であり、友達も日本人。むしろ、その頃の私にとってペルー人は外国人であり、少し怖く感じることもあったので、関わるのを避けていたことを覚えています。

 

 

■また1年間の予定でペルーへ~おばと暮らす姉に会うために~

このように日本での生活を何の疑いもなく楽しんでいた私にとって、2006年に母とともに姉に会うために1年間ペルーにいくと聞いたときは、とても

始まる前の「交流会会場」

始まる前の「交流会会場」

ショックを受けました。この頃の私はペルーに行くのをとても嫌がり、慣れない環境の中で、どのように生きていけばいいのかも分からなかったため、ほぼ罰ゲームのように捉えていました。スペイン語もろくにしゃべれず、読むことすら困難な上、1年間ペルーで勉強する、無茶だと思いました。また、久しぶりに会った姉はすでに16歳であり、7年間も一緒に住んでいなかったため、私にとっては他人同然でした。姉にとっても、私は、「お母さんをずっと独り占めしていた妹」、そのため最初の頃はとても仲が悪かったことを覚えています。

 

 

■せっかく日本に戻ったのに、また突然ペルーへ……。~ペルーで勉強することは苦痛~

1年間ペルーで暮らし、5年生のときに日本に戻りましたが、クラスの子たちとはすぐに仲良くなることができました。そして、1年が過ぎ、6年生になった頃には、友達と出かける回数も増え、凄く楽しい時間を過ごすことができました。小学6年生の冬には、私は中学生になるのをとても楽しみにしていました。いとこのお下がりでしたが、制服も用意してありました。そんな中、ペルーにまたいかなくてはいけないと聞かされ、またどうしていつもこんな突然に引っ越さなければならないのかと、嫌に思いました。

 

このときのペルーでの暮らしは、1年ではなく、3年となっていたため、私は姉が通っていたインカ学園に通いたいと思っていました。その学校では日系人も多く、日本語も教えていたからです。けれど、残念ながら、私が慣れるようにと、いとこたちが通っていた現地の学校に行くことになりました。

 

2年もペルーにいなかったこともあり、中学校の勉強は小学校の頃よりも難しく、科目もたくさんあって、勉強をしたくないと思っていました。ペルーでは毎

クリスチーナさんとお兄さん

クリスチーナさんとお兄さん

回宿題が多く出され、普通の子なら短時間で終わらせられるものも、私は毎晩遅くまで残ってやっていました。ペルーで勉強するのは私にとって苦痛でしかありませんでした。

 

 

■最初は大変だったペルーでの勉強

~勉強が好きになったきっかけは「褒められたこと&多読・速読」~

3ヶ月たった頃、1学期の試験が始まり、はっきりいって勉強なんてどうでもよくなっていたため、テストに向けての勉強はほとんどしませんでした。もう、勉強なんてしたくない、そう思っていたころ、転機が訪れました。それはテストの結果がかえってきたときです。私はほとんどのテストで赤点を取っていました。けれど、数学は言語が関係ないため、いい点数を取ることができ、先生は私をとてもほめてくれました。また、国語の場合、あまりいい点ではなかったのですが、半分は答えることができたため、「今までほとんどペルーで勉強していないのにも関わらず、よくがんばったね」と先生に言われ、もっとしっかりしなくてはならないと思いました。

 

マイシャさんとご両親と一緒に記念撮影

マイシャさんとご両親と一緒に記念撮影

それ以降、勉強に力を入れ、1学期ではほとんど赤点だったものが、2学期では一気に上がり、クラスの中で1位の成績をおさめることができました。このときは、自分でも驚きが隠せませんでした。その結果に親も喜び、勉強をすることでほめてもらえることがとてもうれしく思えるようになり、その後もずっと勉強をがんばり続けました。

 

実は、私が勉強についていけるようになったのはもう1つの理由があります。それは、1年の終わりにスペイン語の多読と速読の習い事をし始めたからです。この勉強を始めてから、自分の語彙数が一気に増えました。本を読むことがますます楽しくなり、これまで以上にたくさんの本を読みました。多読と速読を修了するのには8ヶ月ぐらいかかりましたが、そこでも友達ができたので、とても良い思い出です。

 

スペイン語をマスターしたおかげで勉強にも熱心に取り組み、学校で友達も増え、ペルーで過ごす時間はとても楽しく、あっという間に3年が過ぎました。中学3年生になった頃、私はペルーで行きたい大学なども考え始めていました。

 

 

■中学3年生のとき、また日本に……~ムンド・デ・アレグリアに入って~

けれど、そのときにまた日本と戻ると知らされ、親の都合で振り回されることに憤りを感じ、行きたくないと反対したのですが、数ヶ月だけだと言われ、日本にきました。

 

出場者7人勢ぞろい

出場者7人勢ぞろい

私が日本に来たときには、2月の中旬であり、日本の中学に入るにもすでに遅すぎていて、私はムンド・デ・アレグリア学校に入学することになりました。私が入学して数ヶ月ほどたった頃に、日本語能力試験について聞かされました。最初は受ける必要ないと思ったため受ける気がなかったのですが、この資格を持っていれば、外国でも日本語を教えることができると聞いたため、受けることにしました。学校側が試験に向けて勉強を教えてくれたこともあり、私はN1を合格することができました。その後、ムンドから、ウエルネス高校という通信制の学校と並行して勉強することを勧められましたが、自分はペルーに帰るつもりでいたため、入学しませんでした。

 

ムンドに入ってから1年が経ったころ、友達もでき、生活にも慣れてきたため、私は日本に残り勉強したいと思いはじめました。けれど日本で進学するためには高校卒業の資格が必要なため、ウエルネス高校に入らなかったことを後悔しました。そんな時、ムンドにいらっしゃる岡先生が、高校卒業認定について話してくれました。中学校を日本で通っていない私にとっては少しレベルが高いのかもしれないと思いましたが、挑戦してみようと思いました。必死で勉強して1年が経ち、高校2年生を終わる頃には高卒認定科目のうち6科目を合格していました。けれど、高卒の資格を取るためには、あと3科目必要でした。1年必死に勉強してもまだ3科目も足りないと思い、もう諦めようとしました。親は私がペルーで進学したほうがいいとずっと思っていたため、私にペルーにいくように言ってくれました。私はそのオファーを受け、日本での大学進学を諦めました。自分の逃げ道として使ったのです。

 

 

■高校卒業資格を取り、大学進学を考える~状況を変えてくれた「先生のひと言」~

そして、高2を卒業してから、ペルーに行くための交通費を貯めるために、バイトを毎日し始めました。そして、1ヶ月過ぎたときにムンド校からバイトをしないかと誘っていただき、バイトをするようになりました。そのバイトをきっかけに、ムンドの先生と再び話をする機会ができ、自分は本当はまだ日本で進学したいと正直な気持ちをいいました。最初はだめもとで自分の気持ちを伝えただけなのですが、しばらくしてから先生から良いアドバイスをいただくことになりました。それは、今までの高校卒業認定でとった単位と、ウエルネス高校で残りの3科目を取れば、それを合わせて、高校卒業の資格として使えることができるということです。すぐに両親にそのことを伝えました。反対されるのではないかと思っていましたが、両親は私のやりたいことをすればいいと言ってくれ、決心がつきました。そして、私はウェルネス高校で勉強をし、17歳のとき、高校卒業の資格を取ることができました。

 

無事に日本の高校卒業の資格を取ることができたので、次は大学進学に向けて考え始めました。常葉大学のAO入試を知り、ムンドで日本語の勉強をし始めました。そして、ムンド校の支えもあり、2015年9月、大学に受かることができました。その後も、大学での勉強に困らないようにとムンドの松浦先生にレポートの書き方などを教わりました。

 

 

■楽しい大学生活と将来の夢~ツアーコンダクターになりたい!~

私は現在大学でグローバルコミュニケーション学科に所属しています。大学での勉強は私にとって、難しいと思える科目もいろいろあり、最初はやっていけるかどうかの不安もありましたが、今はとても楽しい大学生活を送れていると思っています。

 

これまでの人生を振り返って、私の歩いてきた道は必ずしも平坦とはいえないと思います。でも、あきらめないで進んできたからここまで来ることができました。私は将来ツアーコンダクターになりたいという夢を持っています。世界中のいろいろな国に行って、その国の人たちと話したり、その国の言語や文化について知りたいと思っているからです。私の夢を実現するための道はまだ始まったばかりですが、これからもどんな高い壁にぶつかっても、諦めないように頑張っていきたいです。

ご清聴ありがとうございました。

スタッフも一緒に

スタッフも一緒に

 

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