浜松市「外国人住民によるフォト・ストーリーテリング」(2015.2.15)

第5回目「はままつグローバルフェア」のホールイベントの1つとして、「フォト・ストーリーテリング」が行われました。これは、「写真で語る私の歴史~これまでの私とこれからの私~」というタイトルで、7人の方が家族の歴史、自分自身の歴史、そして夢を語るというものでした。

※平成26年度文化庁「生活者としての外国人」のための日本語教育事業」の一環としてHICE(浜松国際交流協会)が実施したものです)

 

出身国も年齢も、日本との関わり方も、そして歩んできた人生も大きく異なる7人が、セピア色の曽祖父母の写真、難民として船で祖

1.マリーさん

1.マリーさん

国を出て漂流中にイギリスのタンカーに救助されたときの写真、祖父母のブラジルでの結婚式の写真……それぞれに人生のターニングポイントとなる貴重な1枚1枚に家族愛が込められ、熱いメッセージが伝えられました。

 

1)    高井マリーさん(フィリピン)

来日25年になるマリーさんは、慣れない日本で必死に3人の子育てをしながら、同居のお義母さまを介護し、看取ってきました。地域社会に溶け込みたいという思いから、 日本の文化やしきたりも真剣に学んだと言います。「死ぬまで勉強ですね」と笑顔で語り、「みんなと仲良くできる秘密は?」という交流会での質問に「笑顔と挨拶ですよ」と答えたマリーさんの表情は輝いていました。今では、浜松市教育委員会外国人児童生徒就学支援員やNPO法人フィリピノナガイサ理事として、地域社会でなくてはならない存在です。

 

 

2)    三井新一さん(中国)

2  三井さん

2 三井さん

三井さんは中国人のお父さまと、1944年に中国に渡ったお母さま(浜北出身)とともに中国で育ちました。しかし、お母さまが日本に帰国した後、1996年に来日し、まずは静岡県帰国者自立センター浜松日本語教室で日本語を学びました。その後15年間、中国文化交流会の日本語教室に通い続けています。三井さんは「母を想い、母の人生を振り返る中で、交流の大切さや平和の大切さを考え続けていきます」と語り、「66歳の私には、日中の懸け橋にはなれなくても、橋の『くぎ』になって役に立ちたい。戦争で母の人生は変わってしまいました。だからこそ平和を大切にしたいと思います」という言葉で結びました。

 

 

3)    椎木マリナさん(ブラジル)

すてきな和服姿で現れたマリナさんは、1990年に来日し、最初は車やパソコンの組み立て工場で働きました。ブラジルで少しは日本語を習ったのですが、「私の使う日本語は『大昔の言葉』だったからか、通じませんでした」と、笑いながら話してくれました。

 

3  マリナさん

3 マリナさん

結婚・出産を経ても仕事を続けていたマリナさんでしたが、2008年のリーマンショックで長い間働いてた会社での仕事を失い、「日本語を磨こう!」と一念発起。「リーマンショックの時は大変でしたが、私は、そのお蔭で日本語を勉強するチャンスをもらったし、人との繋がりも深まりました」と、どこまでも前向きに「荒波」を捉えるマリナさんは、最後に次のように語ってくれました。

 

「今私があるのは、みんなの支えがあったからこそです。今度は私がお返しをしたい。ブラジルの保護者も日本の保護者もみんな一緒になって『外国人の子ども』に優しい社会にしたいです。そして、日本の人にもっともっとブラジル文化やポルトガル語を紹介したいと思っています」

 

4)    藤井ロドリゴさん(ブラジル)

「祖父母4人とも日本人」というロドリゴさんは、ブラジル生まれのブラジル育ち。しかし、子どもの頃からブラジル文化の中で育ち、

4 ロドリゴさん

4 ロドリゴさん

日系人社会とはほとんど関わらずに育ったと言います。しかし、2000年父の勧めで、大学を中退して来日。工場に勤め始めましたが、日本語が通じないことに愕然としたそうです。仕事中のどが渇いたので「水を飲みたい」と伝えたものの、上司は事情が分からず怒り出しました。「ああ、日本語が分かりたい!」と、日本語の勉強を始め、日本語能力試験を受け続けたそうです。3年続けて落ちた1級も、ついに2010年に合格。今では、JICE(日本国際協力センター)でコーディネーターや通訳などの仕事で大忙しの毎日です。

 

「習慣の違いを知って、その違いの素晴らしさを知ってほしいと思います。多文化社会をつくるカギは、みんなの手の中にあります。チャンスを捉えて、多文化の町、日本を一緒につくりましょう!」

 

5)    山田明さん(ベトナム)

1981年(29歳)にベトナムを脱出し、イギリスのタンカーに助けられた時の写真を見せながら、64人で故郷を離れた時の話をし

5 山田さん

5 山田さん

てくれた山田さん。「今、自分がこうして生きているのは奇跡」だと語り、「難民を受け入れてくれた日本に感謝しています」と結びました。夢は「若いベトナムの子どもたちが、心身安定して、日本の技術や文化を身に付け、ベトナムを再建してくれること」という山田さんの言葉は、聴いているみんなの心に響きました。現在は、三ケ日町にあるカトリック施設「海の星修道院」の管理者として、多くの人と関わりながら仕事をしています。

 

6)    エドアルド ルーダス リベロさん(ペルー)

18歳の時に来日しましたが、その2年後に起こったリーマン・ショックをきっかけに自分の生き方を真剣に見つめ直しました。エドさんが立てた目標は、次の3つのことでした。

 

・日本語力をあげる(N3に合格する!)

6 エドさんと一緒に

6 エドさんと一緒に

・ホームヘルパー2級の資格を取る

・自動車免許を取る

 

今では、介護施設で仕事をしているエドさんの次なる夢は「看護師になること」です。そして、次にように語ってくれました。

 

「介護の仕事は難しいです。預かっているのは、物ではなくて『命』ですから。職場で私が頭下げると、『頭下げんでいいよ。こっちが下げるんよ。遠くから(ペルー)来て大変だね』と、とても親切です(利用者さん)。日本はぼくにチャンスとツールをくれました。感謝しています。だから、ひいおじいちゃんがペルーで頑張ったように、ぼくは日本で頑張ります!」

 

7 ワリソンさん

7 ワリソンさん

7)    内山ワリソンさん(ブラジル)

ワリソンさんは、5歳で両親とともに来日しましたが、高校3年の時に、リーマンショックが起こり、両親が解雇されました。高校を続けることはできないと諦めかけた彼を助けたのは、周りの人達でした。そして、今では浜松学院大学に通う大学生です。将来は教師になりたいというワリソンさんは、「日系青年として何をすべきなのかを考えながら生きていきたい。私達が子供たちの見本になり、子どもたちをサポートをしたいんです」と熱く語ってくれました。

 

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「なぜ私はここにいるのか」というテーマで語る彼らの生きてきた足跡、彼らの家族の歴史は、たくさんの写真とともに多くのことを伝えてくれました。フォト・ストーリーテリングの後に行われた交流会は、熱気にあふれていました。彼を、彼女を支えてくれた家族や親せき、友達と抱き合う姿、ボランティアの方との握手・・・。入り切れないほどの参加者が集う交流会会場は、多文化共生の原点であり、ここからまた沢山の芽が出て、

交流会会場は満員です

交流会会場は満員です

アチコチで大輪の花が咲き始めることでしょう。人と人とが直に触れ合い、声を聞き合う機会をもっともっと増やしていきたいものです。

 

ロドリゴさん一家と一緒に

ロドリゴさん一家と一緒に

 

出場者とスタッフとの記念撮影

出場者とスタッフとの記念撮影

参考:「ブラジルと日本の懸け橋に~日系3世、クリスチーナさんの想い~」

http://www.acras.jp/?p=3405

 

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