ブラジルと日本の懸け橋に~日系3世クリスチーナさんの想い

ブラジルから日本に来て20年の柳澤クリスチーナさんと出会ったのは、今年3月、浜松国際交流協会(以下、HICE)主催の「日本語教育シンポジウム」でした(http://www.hi-hice.jp/j_event_cal.php?y=2014&m=03#00577)。クリスチーナさんがパネルディスカッションで語った経験談、2つの国に対する熱い思いは、皆の胸に響きわたりました。

さらに、終わってから彼女が見せてくれたおじいさまの「記録帳」に、私は大きな衝撃を受けたのです。ブラジルで繰り広げられた家族の歴史、絆、夢……その「記録帳」はさまざまなことを語ってくれました。

おじいさまの「記録帳」を持つクリスチーナさん

おじいさまの「記録帳」を持つクリスチーナさん

 

それから半年後、クリスチーナさんと浜松で昼食を共にしながら、彼女のライフヒストリーをじっくりと聞かせていただきました。少し長いお話になりますが、クリスチーナさんから聞いたライフヒストリーの一部をご紹介します。また、許可を得て撮らせていただいたおじいさまの貴重な「記録帳」もご覧いただきたいと思います。

 

■大学進学をやめ来日~「日本社会で生きていくには、絶対に言葉を覚えよう!」

大学入学を目前に控えたある日、さまざまな理由から先に日本に行っていた両親のもとに行こうと決心したのです。「大学進学は私の大きな夢でした。その夢をブラジルに置いて日本に来たのですから、私は絶対に日本で幸せになりたい、と努力してきました」と言うクリスチーナさん。でも、日本に来た時は、ほとんど日本語はできなかったので、工場で働いていました。そして、「何とか日本語を身につけたい」と、HICEの日本語教室に通ったり、公文で勉強したりしていました。

 

こうして少しずつ日本語力が付いてきたある日、派遣会社の事務をすることになったのです。「まだ私の日本語力は十分じゃありませんから……」と逡巡する彼女に、「いや、仕事をやりながら、日本語も上手くなっていくよ」と、日本人の上司が背中を押してくれました。

記録帳とアルバム

記録帳とアルバム

 

彼女は人一倍努力をし、公文式の勉強でも「俳句カード」を暗唱したり、「漢字カード」で漢字を楽しく覚えたり……。息子さんがお腹にいる時には「胎教のため、息子に語りかけながら、俳句や漢字を勉強していました。楽しかったです」と語るクリスチーナさん。彼女は、どんなことも楽しみながら、そして、次につなげていくことを大切にしたと言います。

 

16年前、日本で運転免許を取るのは大変でした。そこで、日系ブラジル人の多くは、費用面や言葉の面でも楽に取れるブラジルに帰って免許を取得していました。しかし、クリスチーナさんは、「日本で暮らしていくのだから、どんなに大変でも日本で取ろう。そのことで、日本のルールを知ることもできるし、文化を知ることもできる」と頑張りました。これが、また一つ日本語の階段を上がるきっかけになったと言います。

 

■辛い経験を乗り越え、PTA活動に取り組む~自分が動けば、周りも変わる!~

日本語を学び、日本社会で頑張っていたクリスチーナさんですが、まだ息子さんが幼稚園時代、こんなことがありました。近所のお母さんたちと一緒にサークルを作っていたのですが、もっと楽しくしたいと考え、「俳句をしませんか」と提案してみました。しかし、返ってきたのは、「興味ない!」という冷たい言葉でした。それからは仲間との関係も何となくぎくしゃくして、すっかり落ち込んでしまいました。「半年以上外に出るのも厭でした。私は、日本人と同じ扱いをしてほしかった。認めてもらいたかった。でも、ダメでした」と、クリスチーナさんはその時の気持ちを語ってくれました。

 

しかし、そこでまた彼女の「チャレンジ精神」が沸き起こってきたのです。息子さんの小学校入学直後、PTAの役員を打診されたクリスチーナさんは、「そうだ!自分が落ち込んでいても、何も変わらない。まずは、私自身が頑張ってみよう!私は日本人じゃないけれど、同じ人間、同じお母さんなんだもの。私が頑張れば、日本人のお母さん達も、みんなも認めてくれるだろう」と考えました。

 

ある日、会議の時にPTA会長が何度も「外人、外人」という言葉を発したことを受け、クリスチーナさんは次のように発言したそうです。

 

「あの、ここでは『外人』言っていますが、今では他の都市で『外国人』と言うんですよ。『外人』って言われると、なんだか差別というか、区別されている気がするので、やめていただけませんか」

 

PTA活動

PTA活動

PTA会長は、会議が終わってから「すみません。傷つけてすみません。言葉のこと、教えてくれてありがとう」と謝りました。そのことは、「ただ参加するだけではなく、声をあげていこう。自分から行動を起こしていこう。そうだ、周りを巻き込んでいこう」という次のステップに彼女を連れていったのです。

 

今では、クリスチーナさんがPTA活動を続けた地元小学校では、日本人とブラジル人の父兄が一緒になってグループで活動をしています。そして、ある交流会の席で、一人の日本人がこんな感想を述べたそうです。

 

「日本人だとか、外国人だとか関係ないよね。みんな同じお母さんだよ。みんな一緒。これからも一緒にがんばろう。こんな交流会をこれからも一緒にやっていこう」

 

何と長い年月がかかったことでしょう。でも、差別にも屈することなく、「言葉の壁」にもめげることなく、「日本社会でともに生きる一員」として頑張ってきたクリスチーナさんの思いが、周りの人々にも伝わっていったのです。

おじいさまの「記録帳」

おじいさまの「記録帳」

 

■家族を愛し、チャレンジし続けた日系1世~孫のためにポルトガル語を勉強~

おじいさまの西條氏の「記録帳」を見て、びっくりしました。写真とともに語られる日常……そこには家族への思いがたくさん綴られていました。遠く離れたブラジルの地で頼れるものは家族であり、親族であるという毎日。そこには深く、太い絆が存在していました。そして、未来への夢とともに、日本への想いもありました。

 

クリスチーナさんが小学校3年生ごろのことでした。それまで、ずっとおじいさまとは日本語で話していたのですが、突然「おじいちゃん、もう私に日本語で話さないで!友達に恥ずかしいから」と言いました。ブラジル人の友達から「クリスチーナの家に行くと、靴を脱がなきゃいけないし、日本語で挨拶したり、日本語を話すからいやだ」と言われたことに傷ついたのです。

 

おじいさまは静かに頷き、それからは日本語を使わないようになりました。とはいえ、ポルトガル語は全くできません。そこで、おじいさまは、孫とのコミュニケーションを取りたい一心で、ポルトガル語の勉強を始めました。そして、日常の会話は、ポルトガル語と日本語を織り交ぜたものとなりました。クリスチーナさんは、亡くなる直前に日本語で「ありがとう、ありがとう。諦めない子だね」と語りかけてくれる祖父の姿に、涙が止まりませんでした。そして、「おじいちゃんは、本当は私と日本語でいろんなこと話したかったのに、『日本語はやめて!』なんて言ってしまって……」という思いでいっぱいになり、深く反省したと言います。びっしりと書かれた日記

 

では、ちょっと「記録帳」をご覧ください。ここには、クリスチーナさんのお父様のことがたくさん記されています。しかし、ポルトガル語で育ったお父様は、日本語を読むことができないのです。数年前に叔母様からクリスチーナさんの手に渡った「記録帳」を手に、今こんなことを考えていると、熱く語ってくれました。

 

「おじいちゃんは、本当に温かい人で、私は『おじいちゃんっ子』でした。私の家族、私の人生は、おじいちゃんから始まりました。だから、この「記録帳」を見て、本当に嬉しかったんです。こんなに子ども(クリスチーナさんのお父様)のことを毎日書いていたなんて……。でも、先生、辛いんです。だって、日本語で書かれているので、父は読むことができません。だから、これをポルトガル語に訳して、父に読んでもらいたいんです。父が元気なうちにぜひ!」

お父さまの小さい時の手紙

お父さまの小さい時の手紙

 

■若者にポルトガル語を教えたい~ともに夢を持ち続けよう!~

ブラジルに大学進学の夢を残して来日したクリスチーナさんですが、その夢を忘れたわけではありません。いつか、何かの形で……とずっと考え続けていたのです。

 

ある日のことです。何気なくインターネットで検索をしていると、「ブラジルのマット・グロッソ連邦大学(UFMT)と東海大学とが共同で行う『遠隔教育コース』」が目に飛び込んできました。これは、2007年に百周年記念事業(2008年がブラジル移住100周年)として企画され、在日ブラジル人学校で働く教員や地方自治体などで補助教員として働くポルトガル語対応教員を対象にして、ブラジルが4年間の通信教育を300人に対して無償で行うものでした。

 

小学校で支援員をしていた彼女は「これだ!」と夢中で願書を書き、入学をしたのです。ブラジル人学校にはしっかり広報活動がなされていましたが、一般にはなかなか情報が入ってこない状況の中で、常に情報を追い求めて動いていたからこそキャッチできたチャンスでした。

 

クリスチーナさんと一緒に

クリスチーナさんと一緒に

こうして、2009年に入学した彼女が大学4年のときに、最愛のお母様が亡くなり、その1週間後にはお祖母様が亡くなりました。卒業論文を書く気持ちにはとてもなれませんでしたが、「私の夢の実現を喜んでくれるのは、お母さん。絶対に頑張ろう」と、歯を食いしばって、完成させました。

 

そんな彼女は、今、U-ToC(浜松市外国人学習支援センター)でポルトガル語を教えています。そして、もっと先の夢を次のように語ってくれました。

 

「大学で若者にポルトガル語を教えたいんです。言葉だけではなく、文化を学ぶことの大切さも伝えたい。そして、私のやってきたことを通して「諦めてはいけない」ということも教えたいと思っています。若い人が夢を持たないとダメですよね。私は、日本社会でいっぱい支えてもらって、ここまでやってくることが出来ました。だから、今度は私ができることをやっていきたいんです」

クリスチーナさんが描いた絵「リオデジャネイロ」

クリスチーナさんが描いた絵「リオデジャネイロ」

 

クリスチーナさんは最後にスマホからいくつかの絵を見せてくれました。これは、リオデジャネイロの風景を描いたものですが、明るい色遣いで、さまざまなものを象徴的に描き出しています。「日本の人達にこういう絵を見てほしい。もっとブラジルのことを知ってほしい」とクリスチーナさんは言います。

 

「色遣いが違うでしょう。本当の風景をお見せできたら、どんなに嬉しいか。でも、絵を通して、日本の人にブラジルを知ってほしいんです。そして、2つの文化の違いを知ってほしい。そうすることで、もっと日本のことも見えてきますよね。私にとって大切な2つの国、文化、人々の懸け橋になりたいと思っています。それが私を支えてくれた日本の人、日本社会へのお返しの道ですから……」

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