3月26日に「会話×コミュニケーション×評価」というタイトルで科研シンポジウムを行いました。基調講演は広島大学の柳瀬陽介氏、タイトルは「テストとは受験者と試験者を共に試すもの-言語熟達度評価の歴史-共同体性について-」でした。「わかる」・「できる」・「会話テスト」という3つの軸を中心にした示唆に富んだお話に、参加者はぐいぐい引き込まれていきました。
最後のパワポに登場した「ことばが『わかる』ことも、コミュニケーションが『できる』ことも、世界・他者・自己との関わりにおける出来事」という言葉には、深い意味が込められていました。
基調講演の配布資料、当日使われたパワーポイントなどは、すべてJOPTのホームページに載っていますので、どうぞご覧ください。
シンポジウム全体 http://jopt.jpn.org/p5.html
予稿集 http://jopt.jpn.org/doc/20150326.pdf
柳瀬講師の発表資料PPT http://jopt.jpn.org/doc/symp2015/yanase.pdf
シンポジウム当日、柳瀬氏からご著書『小学校からの英語教育をどうするか』をいただきました。岩波ブックレットですので、63ページという分量。しかも小学校英語教育の課題が実に分かりやすく解説してあり、他の言語教育にも大いに役立つ内容です。ぜひ英語教育だけではなく、日本語教育に携わっていらっしゃる方々など、さまざまな方々に読んでいただきたいと思います。
この本の表紙に書かれた「無味乾燥な知識伝授ではなく、子どもたちの心を揺さぶり、自然にことばを発したいと思わせる授業のために」という言葉、そして、シンポで伺った「著者の生の声」を思い出しながら、私は日本語教育の現場からひと言意見を言いたくなりました。
■学びにおける「こころ」・「からだ」・「あたま」
日本語教育の現場を見ると、今なお「あたま」を使うことばかり考えている授業が多く見られます。特に最近では、「やる気がない」「2年経っても初級レベルの学習者で……」という学習者に対する不満、さらには、「こころが折れてしまいそうで……」「疲弊してしまって・・・」という教師の悩みも増えてきました。
柳瀬氏は「『こころ』とは『からだ』を感じていることであり、その『こころ』を言語によって拡張したものが『あたま』」であると述べています。さらに、「身体を頭の奴隷にしてしまったことにより、『からだ』と連動した『こころ』を失ってしまった学習者は、自然な情感を失い、学びそのものの喜びを実感できない」と続けています(p.12)。
私は「わくわくしていますか」という問いを「リトマス試験紙」のように使っています。「こころ」と「からだ」を大切にした、学習者にとっても教師にとっても「わくわく感」のある授業を心がけたいものです。
■トレーニング中心主義の弊害
行動中心の考え方が日本語教育現場にも広がってきているにもかかわらず、無味乾燥な「形の導入→文型導入→口頭練習→応用練習」といったパターンでの言語学習が行われている現場が多く見られます。もちろんドリル練習も重要ではあるのですが、「はじめに言語活動がある」ということを忘れてはなりません。また、同じ口頭練習でも、意味のある、学習者が考え、「自らの声」を発することができることへの配慮が求められます。柳瀬氏は「トレーニング中心主義は、言語使用・言語学習・言語習得の基盤である情感を剥奪し、ことばから生命力を奪ってしまいかねない」(p.16)と警鐘を鳴らし、「自分の気持ちに英語を乗せる経験を日頃から積んでおかないと、自分のことばとして英語を語れない」(p.8)と述べています。
私が監修した『できる日本語』シリーズは、「自分のこと/自分の考えを伝える力」「伝え合う・語り合う日本語力」を身につけることを目的にしています。また、日本語によるコミュニケーションの中でも「対話力」に重きをおき、人とつながる力を養うことをめざしています。対話とは、異なる価値観を持った人同士が話し合いを通して、他者理解、自己理解を深め、新たな価値を創造することであり、それが人を成長に導くと言えます。このシリーズは、トレーニング中心主義の弊害を痛感した仲間が、「では、どうすればいいのか?」「学習者にとって、わくわく学べる教材とは?」について対話を重ねて新たな物を作り続けた結果なのです。
■「聞くこと」に目をむけよう!
柳瀬氏は、聞くことがもつ力についても言及し、こんなエピソードを紹介しています。
ある時、絵カードをさかさまにして子どもに見せたら、子どもは「さかさま、さかさま」と騒ぎ始めました。私はさりげなく、“Sorry,upside down”とだけつぶやきます。数枚後にまた、さかさまのカードを出しますと、ほとんどの子どもはまた同じように「さかさま、さかさま」と騒ぐのですが、一人の子だけは、“Upside down”と、ついさっき初めて聞いた英語を口にしました。すると、次にさかさまのカードが出てきた時には、多くの子どもが“Upside down”と言い始めました。誰かひとりが気づいて自発的に発した英語の方が、教師が教え込み何度も繰り返させた英語よりもはるかに子どもに響いているわけです。(p53)
私も日本語教育において、教師が教え込むのではなく、学習者自身が気づき、発見することの重要性を痛感しています。つまり、教師は学習者が持っている力を引き出し、推測し、新たなことに気づくことをサポートする存在なのです。『ACTFL-OPI試験官養成用マニュアル』にある次のメッセージをお読みください(p.121)。
学習者が言語運用能力を向上させたいのであれば、教師が取るべき役割は、自分自身を「舞台に上がった賢人」に見立てるような伝統的なものではなく、むしろ、「側に付き添う案内人」というようなものになるはずである。すなわち、教師側からの話を最小限に抑え、学習者が会話に参加する機会を最大限に増やすという役割である。
■子どもの表情の変化を大切に!
学習者の状態を観察することの重要性は分かっているものの、現場ではこうしたことに目を向ける余裕はなく、教科書を軸に、教師主導で行われることが多いのが現状です。「学習者主体」を掲げながらも、学習者をしっかり見てはいない……ということが多いのではないでしょうか。柳瀬氏は「目の前の子どもの表情の変化を大切に」と訴え、それは「表情は、『からだ』と『こころ』の統合的反映」だからだと言います(p.58)。
「私は、よく学習者を観察しています」という自信に満ちた教師の声をよく耳にします。
しかし、「観察」とは、思い込みや偏見なしで客観的に見ることなのですが、どうもラベリングや妙なバイヤスがかかった観察が多く見られます。さらに重要なこととして、「洞察」の重要性を挙げておきたいと思います。「洞察」とは、「観察」をベースにして、目に見えないこと、例えば「なぜ学習者はそういう行動をするのか」といった「こころ」の中を見る、推察することであり、洞察力は教師にとって極めて重要なものであると言えます。すなわち、「観察」で終わるのではなく、「洞察」をすることこそ教師に求められることなのではないでしょうか。
■日本語教育、国語教育、そして英語教育の連携を!
『小学校からの英語教育をどうするか』を読んで、柳瀬氏の言語教育に対する思いがしっかりと伝わってきました。そして、言語教育において同じような課題を抱える他分野に関わる人同士が、違う教育現場から言語教育観そのものを見つめ直し、話し合いをすることの重要性を改めて痛感しました。今回は「今の小学校英語教育改革」そのものについては触れませんでしたが、今後どんどん英語教育のあり方、国語教育との連携等についても発信していきたいと思います。
皆さん、「学ぶこと・教えること」についてさまざまな「対話の場」を広げていきませんか。
対話を通してこそ「豊かな社会」をつくることが可能になるのではないでしょうか。柳瀬氏との著書を通した対話は、私に新たな一歩を踏み出す力を与えてくれました。
参考:「日本の教育、みんなで考えませんか?~『英語教育、迫りくる破綻』を読んで」
(2013.7.13) http://www.acras.jp/?p=1690
「非漢字圏学習者に対する日本語指導~『学ぶこと・教えること』の抜本的な見直し」
(2014.12.15) http://www.acras.jp/?p=3589
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