現場教師によって生まれた『ちがいがわかる対照表 日本の漢字 中国の漢字』:伊奈垣さんが語る誕生秘話

2017年7月に以下のような記事を書きました。

「私だからできること」『むすびめ2000』伊奈垣圭映さんの投稿文を読んで

http://www.acras.jp/?p=7181

 初版と2019年の2版

記事では、伊奈垣さんが出版された『ちがいがわかる対照表 日本の漢字 中国の漢字』について紹介しました。その後、本書はさまざまな反響があり、2018年には台湾で出版され、また、2019年には第2版が出ています。

 

2019年6月に公布、施行された「日本語教育の推進に関する法律」には、第3章基本的施策 第1節 国内における日本語教育の機会の拡充において、「外国人等である幼児、児童、生徒等に対する日本語教育」に関して、明確に記されています(第12条)。そうしたことから、文科省や新聞社による実態調査等が行われ、外国にルーツを持つ子どもたちの日本語支援のことが、いろいろ話題に上ってきています。

 

そこで、もう一度『日本の漢字 中国の漢字』について取り上げたいと考えました。本書は、伊奈垣さんが「少しでも分かりやすく、楽しい授業をしたい」と作り続けた「漢字の対照表」がもとになっています。それは、ご自身が「3種の漢字<常用漢字、簡体字、繁体字>」で育った伊奈垣さんだからこその工夫でした。それを「自分だけで使うのではなく、多くの方々に使っていただきたい」と、社会貢献として自費出版したのが本書です。

 

私がこの本の誕生秘話をお伝えしたいと思ったのは、以下のような理由からです。

 

・実践での個々の工夫を、みんなで共有することの大切さ

・現場での実践から生まれる教材の大切さ

・困難なことを乗り越えるには、「人とのつながり」が大切であること

・発信し、対話をすることで、新たな可能性が生まれること

 

どうぞ伊奈垣さんのレポートをご覧ください。そして、ぜひ『日本の漢字 中国の漢字』をお手に取ってご覧ください。

2版

2版

 

♪    ♪    ♪

 

 

『ちがいがわかる対照表 日本の漢字 中国の漢字』

  出版、それから

           伊奈垣圭映(梁佳惠)  

     

 PDF→『ちがいがわかる対照表 日本の漢字 中国の漢字』伊奈垣圭映

 


【これまで「中国と日本の漢字のちがいをまとめた本」がなかった理由】

中国と日本の漢字のちがいをまとめた字典なり、本なりはないものかと長い間日本はもちろん、中国、台湾、香港、シンガポールに行くたびに書店で探したが、見つからなかった。だから、プリントを自作していた。だけど、どうして誰も出版しないのか不思議だった。そして、この本を出版してその理由が分かった。それは、次のようなことがあるからだと思う。

中国ですべての漢字が簡略化されたのではない。また、漢字は、時代や使用されている地域で変化し続けている。常用漢字も手書きやフォントによって、許容される字形がある。繁体字も香港と台湾では微妙に異なるものもある。漢字の中には、成り立ちに諸説があるものがある。私もこの本を編集しながら、数日も悩まされた字がいくつもある。

一筋縄でいかない「漢字」を対照させるのは簡単ではない。研究をすればするほど難しくなって、対照表作成に手が出ない。だから、このような本がなかったのだ。ところが、幸い私は漢字研究者ではなく、小学校の教師なので実用的で分かりやすく編集でき3 使い方 た。もちろん、正確性は重んじた。

中国で漢字の簡略化は、1900年初め頃から始まり研究が進められ、1964年に『簡化字総表』にまとめられた。さらに、2013年に『通用規範漢字表』(8105字)が発表された。それが、今日、中国で使われている漢字だ。

1966年から10年間、中国で文化大革命が繰り広げられ、教育が滞り漢字学習にも混乱が起こった。今の子ども達の祖父母の世代は、そのような時代を生き、父母世代は簡体字で教育を受けている。子ども達は、現在中国と日本で使われている漢字は、元は同じものだと知らない。繁体字を保持している台湾と簡体字を使っている中国の若い世代は、話し言葉では通じても、書き言葉では通じないことがある。だから、看板や標識には2種類の中国語表示がいる。

日本の学生が台湾へ留学することも、最近増えている。日本の大学では簡体字で中国語を学び、留学先の台湾の大学では繁体字で学ぶ。そのような場合にもこの本が役だっている。

 

 

【私と3種の漢字、そして『日本の漢字 中国の漢字』の誕生】

この本は、一つの試みとして提示することができると思う。私は対象者を、小中学校で日本語を学ぶ中国語話者(子ども)としている。ところが、中国語を学習している日本語話者、指導者、日本と中国の間で仕事をしている人など、様々な読者を得ている。出版前は、「誰も手にしないだろう。」と思っていたのに、こんなに需要があるとは想像していなかった。

神様は、私にこの本を出版させるために、私が生まれる前から準備されていなのではないかと思う。私は1961年に生まれ、日本で華僑学校に通った。ちょうど小中学校の時、常用・簡体・繁体の三種の漢字の中で学習した。同4 中学1年「迎」じころ、中国語の発音記号が注音符号から漢語拼音に変わり、両方学んだ。

父は若いころ新聞社で校正員をし、私が1歳の時印刷会社を開業した。職業柄か、誤字脱字にはうるさい人だった。母方の祖父は、文字が書けたので友人達に代筆をしていた。妹は幼いころから母に父の会社から出る裏紙で絵を存分に描かせてもらって、イラストレーターになった。私は親族の大反対の末、教師になった。そして、華僑学校と公立学校で奉職し、自身の経験と生徒たちの姿が重なった。

両親の血をひいているからか、私はこの本の原稿を完全版下で出すことができた。妹もプロ、それでレイアウト料を大きく節約できた。それからも奇跡つづきだった。出版を勧めた友人、校正を手伝ってくれた友人、版下を作ってくれた技術者、制作や販売に助言してくれた営業マン、無償でイラストを描いてくれた妹、資金を出してくれた友人、丸善ジュンク堂書店の総務部長、神戸新聞の記者、買って広めてくれている人たち・・・。私が困って諦めかけた時に、必ず助け人を神様は用意される。

 

たった1冊の出版。しかし、この本が私にもたらした効果は計り知れない。この本を広めたくて、日本語教育や中国語教育、在日外国人教育などの学会や研究研修会に積極的に出て行った。そこで、大学や日本語教室の先生方と知り合えることができた。私のフィールドがぐんと広がった。この本に、私の漢字教育への願いを託して、さらに広げていきたい。自費出版であるという自由と、一般的な図書流通とは異なる形態で販売されているおもしろさが、この本にある。私の細やかな社会貢献である。需要がある限り、続けたい。

            

【『日本の漢字 中国の漢字』の前身は、授業のための「対照表」】

2004年ごろから、小学校で中国からの子ども達の日本語学習に、小学校で習う日本の漢字(常用漢字)と中国の漢字(簡体字と繁体字)の対照表を作っていた。

・日本と中国の漢字のちがいに戸惑う子どもたちの姿が、自分の小学生時代と重なったこと。私と同じように、両方の漢字の中で混乱していた。

・母語、あるいは母国語である中国語を習得してほしいこと。中国で学んだことを忘れないでほしいとの思いがあった。

・日本の学校の先生が、両言語の漢字のちがいを認識していないこと。先生達の「中国から来た子で中国語が解るのだから、漢字ができるはず。」との思いを知って、漢字理解のために。

これらの願いから、対照表を作ってプリントにしていた。自校の子ども達だけでなく、神戸市内の中国児童の多い学校などにも配布していた。

2013年夏、友人に漢字対照表を見せると、「これ、きっと多くの人が必要としていると思う。本にして出版したら?」と言われた。だが、「こんな漢字の対照表が本になるのか。出版なんてできるんだろうか。出したところで、買う人なんているんだろうか。」との戸惑いの方が大きかった。

半信半疑でレイアウトを考え原稿を作り始めた。常用漢字と読み、簡体字と拼音、そして繁体字と注音符号を並べた。ところが、注音符号を入力するソフトがない。そこで、小学校低学年のころ通っていた母校大阪中華学校に助けを求めた。校長先生も教務部長も快く話を聞いてくださった。教務部長の先生は、注音符号のフォントをくださり、この本の出来上がりを期待していると応援してくださった。

2014年、試しに数ページプリントして、知り合いの出版社に見せた。「これは、自費出版なら出せる。」と言われ、私も売るのではなく、日本語教室や学校の国際教室に差し上げようと思っていた。だから、自費出版で十分だった。ところが、私が作った原稿データを版下にすると、中国の漢字や注音符号が化けてしまう。印刷まで持ち込めないと、初めの出版社を含め3社に難色を示された。「注音符号を諦めては、どうか。それならどうにかできる。」とどこの社でも言われたが、台湾からの子どもたちには、注音符号が必要でとってしまうわけにはいかない。「それなら、出版自体諦めよう。」と思い、一旦編集作業に終止符を打った。

 

【出版、それから】

 

2015年6月、イラストレーターの実妹、陣条がかねてより絵本など出す時は、絵を描くよと言ってくれていたので、相談してみた。彼女の取引している出版社、水山産業を紹介してくれて、つないでくれた。この会社は、印刷会社でその中に自費出版を手掛ける部署があった。相談すると、「やってみます。パソコンを三日間預からせてください。」と。パソコンを預けるには、やや不安はあったが彼女にお願いすることにした。三日後、「できました。」との連絡で、パソコンとページのサンプルをもらいに行った。

 5  第2版

2015年は、私にとって大変な年だった。6月以降小学校講師の仕事が断続的で、短い辞令ばかりで途切れることが多かった。それが、この本を集中して編集するいい時間になった。以前教材にしていたプリントは、小学校の学習漢字だけだ。それに、中学校の学習漢字も含め常用漢字2316字で編集を始めた。それぞれの漢字の成り立ち、対照関係を母校武庫川女子大の図書館に通い調べた。漢字をこれほどまで調べたのは初めてで、成り立ちや歴史には諸説があることも知ることができた。

簡体字の校正は、シンガポールの友人が引き受けてくれた。繁体字の校正は、神戸市で多文化子どもサポーターをされている台湾からの先生にお願いした。お二人とも根気よく付き合ってくれた。

 

2015年クリスマス。念願の初版1刷、500部発行。友人や日本語指導の先生、学校に配った。陣条が過去に絵本原画展を開いたジュンク堂書店三宮店店長に連絡し一冊お送りすると、大変気に入ってくださって丸善ジュンク堂書店で取り扱ってくださることになった。また、妹が個展などの記事を載せてもらっている神戸新聞社に連絡してくれて、取材を受けることになった。当初は、新刊紹介の数行ほどを予定していたが、話しているうちに記事として扱いたいと紙面を割いてくださった。

 

2016年8月全国の都道府県と大阪市・神戸市・東京都の公共図書館、計147館に寄贈。その他、小中学校、大学図書館、全国の夜間中学校、兵庫県の日本語ボランティア教室、中国帰国者の会など中国語を母語とする人が日本語を学ぶ場に寄贈した。

全国5校ある華僑学校(神戸中華同文学校、横浜山手中華学校、横浜中華学院、東京中華学校、大阪中華学校に各24冊寄贈。神戸華僑歴史博物館、神戸学生青年センター、猪飼野セッパラム文庫へ寄贈し売り上げを寄付。

 

丸善ジュンク堂書店以外に、東京の中華書店や凡人社、TRCなど営業に行って取り扱ってもらえるようになった。書店やAmazonで、2刷、3刷と想像以上に売れた。自費出版なので、特に広告を出していなかったが、委託先の書店や読者の口コミのおかげだと6  初版 おわりに感謝している。

 

2018年2月28日、流通をお願いしていたJNSが倒産した。8か月後の10月19日、水山産業が倒産した。それで3刷の多くの利益が、回収できなくなった。そればかりか、この本の継続発行や販売ルートを素人の私がどうすれば良いのか、困惑した。

 

2018年3月、台湾の鴻儒堂出版社より台湾版が発行される。書名『一目瞭然對照表 日文的漢字 中文的漢字』1000部。私は、前年より台湾で出版したく出版社を探していた。2社目に社長とFacebookでつながったご縁で、話が進んだ。鴻儒堂は書店も開いていて、日本語教育のテキストや日本の書籍、日本がテーマの本を手掛けている老舗。社長は嶋田先生のFacebookから私の漢字の本を知ったようだ。それに、客注で以前この本を日本から取り寄せたこともあったそうだ。社長は私の意向をよくくんでくださり、原書を大事にしてくださった。

第2版は、2020年度より小中学校の学習漢字が再編されるのを機に、それに沿って漢字を並べ替えた。また、ある小学校の友人先生から、「読みが分からなくても引けるようにして欲しい。」と要望があり、総画索引をつけることにした。初版の時から、総画索引の必要性は感じていたが、踏み切れなかった。三種の漢字を一つの総画索引にまとめる、無謀で斬新な方法で作った。そして、消費税が8%から10%に改定される2019年10月1日に発行し、販売することにした。

出版の表


 

 

 

 

 

 

 

【私が関わった事例より】 

事例A

私が関わったのは小6の時

小3 秋中国から編入の男子。 通級で週 1 回 1 時間日本語指導を受ける。ひらがな・カタカナを習得、日常会話の聞取りできる。

小4 漢字が定着しない、中国の漢字も忘れて思い出せない。学校では、あまり話さない。

小5 友達と日本語で話せる。算数が得意。国語、社会の読解が難しい。作文は、ほとんどひらがなで書く。

小6 教科と小3年以上の漢字を中心に放課後指導始める。漢字は日中両方の字形と読みを学ばせ、 熟語や物語を読ませた。日本語と中国語両方で作文指導。私が中国語で話しかけても日本語で返答する。 クラスで私が中国語で漢字クイズや、中国の文化を紹介する国際理解の授業をしたのが一つのきっかけとなった。その後意欲的に漢字学習にも取り組むようになった。区の作文コンクールで優秀賞受賞。漢検 7 級 まで終了した。「中国語も勉強したい。」と意欲が高まってきた。

事例B

小学校高学年のクラスの国際理解の授業で漢字クイズを出す。簡体字からそれに対応している日本の漢字を考えさせる。日本と中国で使われている漢字は、元は同じで時代と地域によって変化していることを紹介する。日本の子は中国語に興味をもち、中国の子は自己肯定する機会になった。

事例C

4年生で、勉強があまり好きでなく、宿題もほとんどやってこない日本の子。この本との出合いで、漢字に興味をもち、毎日数ページノートに写してくるようになった。

事例D

日本の子で、小学校6年生の時、漢検2級に合格した子がいた。お母さんが、「先生と先生の本との出合いのおかげです。」とお礼を言ってこられて、おどろいた。

事例E

中国から小6に渡日した子。中学1年の時、この本をプレゼントした。日本語が分からず勉強がおろそかになっていた。教科書に出ている漢字をこの本で調べるようになって、「やる気が出た。」と話してくれた。

Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.