6月アクラス研修のご報告「「移動する子ども」という記憶と力」(報告者:高畑伸子)

 

著者の川上郁雄さん

著者の川上郁雄さん

6月14日に実施した「アクラス研修<著者との対話『「移動する子ども」という記憶と力』(著者:川上郁雄さん)のご報告です。記事は元Virginia Beach City Public Schools ( ヴァージニア・ビーチ・パブリック・スクールズ)専任日本語教師の高畑伸子さんが書いてくださいました。

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6月研修の報告『「移動する子ども」という記憶と力―ことばとアイデンティティ』

                                       (報告:高畑伸子)

6月14日(金)のアクラス研修は、移民問題にかかわる子どもの心と言語教育関連を取り扱うテーマでした。タイトルは「移動する子ども」という記憶と力―ことばとアイデンティティです。講師は早稲田大学大学院日本語教育研究科の川上郁雄先生。さまざまな地域からの参加者はご自身が子どもを連れて各国に移り住んでいたり、または、多様な日本語教育・支援の現場で、そういう移動する子どもたちが抱える問題と取り組んだりしている方々でした。熱気のこもった問答が交わされました。

『「移動する子ども」という力と記憶』_

『「移動する子ども」という力と記憶』_

■複数言語環境で生きる子ども一人一人と向き合うための教育的課題とは~

  以前から移民研究はされてきましたが、その対象には連れられてきた子どもたちはほとんど入っていませんでした。移民の子どもの語られ方は、親の国籍や出身地などで「くくられ」「名付けられ」といった一種、暴力性を秘めた捉えに甘んじてきました。例えば、日本の移民研究に目を転じてみれば、「日系ブラジル人」「中国帰国者」「中国系ニューカマー」「在日コリアン」などいずれも勝手に「くくられ」「名付けられ」た呼び名であることに気づかされるでしょう。現在、移民の問題はより拡大しています。単なるエスニティではなく、常に移動している人々の存在が確実に増えているのです。親の事情で複数の国を移動する人生を送る子どもたちへの視点を持つことは、子どもが自分をどう考え、どう生きようとしているのか、という子どもの主体(アイデンティティ)を議論することにほかなりません。これからは多様な「海外在留人」の子どもたちが複数言語の中でどう生きていくのかという視座が必要なのです。川上先生は、複数言語教育課題として次のような主張を提示してくれました―複数言語環境で生きる子どもが複数言語と向き合い、自らの生き方、アイデンティティをどう「名乗る」のか、実践者は子どもとどう向き合うのかということ―。一口に複数言語といっても、その関わり合い方はさまざまです。一人一人の子どもが個別の言語体験を経ながら生きているのです。「第二言語教育」「継承語教育」さらに複数言語教育の「移動する子ども」学へと多様かつ深い意味が存在していることが分かります。単なる記号としてや知識としての言語の習得にとどまらず、アイデンティティや心の問題として言語が機能していることを認識しなければいけません。移動する家族を分析してゆけば21世紀の家族の形態の変化は明らかです。さて日本語教育に焦点をあてたら、もちろん日本語教育自体が変わらなければならないことは一目瞭然と言えるでしょう。複数言語の受け止め方、意識の持ち方の変化は言語に関わる全ての人々が無視できないのですね。参加者は一様に深い問題意識の所在に思いを深くしているようでした~~~。

真剣にお話を聞く参加者

真剣にお話を聞く参加者

■複数言語環境で成長する子どもたちの生― 経験や記憶を意味づける力!

次に川上先生が提示されたのは、学会発表された「移動する家族」の視点です。これは、台湾と日本で成長した一青妙氏とその家族の歴史を例に挙げています。台湾人の父と日本人の母を持ち、両国の間で成長した彼女にインタビューを行い、分析したデータをベースにしています。そこから幼少期より複数言語環境で成長した子どもの経験はその後の生でどのように意味づけられてゆくのか、また複数言語習得がアイデンティティ形成にどのように影響するのか、さらに、「移動する子ども」という記憶をもつ家族の歴史と子どもの言語習得はどのように関連してゆくのかという3つの論点を導き出しています。川上先生は、「移動する子ども」という分析概念を設定して説明してくれました。その3要素は、1. 「空間を移動する」 2. 「言語間を移動する」 3. 「言語教育カテゴリー間(言語学習場面)を移動する」であり、そのコアになるものが複数言語を使って生活したり他者とつながったりする「経験」なのだといいます。経験は実感の伴った「記憶」として子どもの中に残り、その記憶から言語に対する意識や自我の形成も生まれてゆくといいます。

『私の箱子』(一青妙著)

『私の箱子』(一青妙著)

一青妙氏が書かれた初のエッセーである『私の箱子』を紹介してくれました。ここには「移動する子ども」という視点を含んだデータが満載されています。一種の自己エスノグラフィーともいえる著書です。そこからの川上先生の分析は3点。1つ目は、幼少期より複数言語環境で成長した子どもの記憶が焦点化されているということ。2つ目は、幼少期より複数言語環境で成長する子どものアイデンティティ形成がうかがえるということ。3つ目は、「移動する子ども」という記憶と経験をもつ家族の歴史書であるということ。妙さんが複数言語と記憶からアイデンティティを再構築しようとする試みの中で言語に対する意識を「すごく不安」「自信がなくなったという記憶」というふうに表現しているところに着目するべきでしょう。アイデンティティ構築に一貫して流れていた不安定性と不安感が妙さんにこの書を書かせたという視点に、参加者の中から驚きの声があがりました。特に移動する生活環境を自ら送りお子さんを持つ方からは身につまされる思いや思慮をもって子どもを見つめようという意見が出されました。

■20世紀と21世紀の第一言語の定義の違い―ソフィアの例から~

『私も「移動する子ども」だった』(一青妙さんも出ています)

『私も「移動する子ども」だった』(一青妙さんも出ています)

川上先生が実際に出会ったソフィアという女子生徒の例も出されました。ソフィアさんは生まれはロシアですが日本に幼少期に住み、その後は英語圏に移り住みました。彼女の言語はロシア語、日本語、英語の複数言語です。では彼女の第一言語は何なのでしょう。生まれた土地のロシア語? 現在の居住地の言語の英語? 彼女にとっては自分の第一言語は日本語だというのです。大好きだった日本の言葉を使ってプレゼンテーションをしてみせたソフィアさん。いってみれば親の勝手で複数の国を移動させられる子どもたちにとってみれば、第二言語習得も継承語教育も実践者(教師側や親)のきめつけであり、意見の押しつけといえるでしょう。第一言語は何なのかという観点からして、20世紀と21世紀の違いは、前者が実践者のきめつけであれば、後者は当事者の意識であると言えそうです。

■「学習環境」の重要性~学校、家族、地域~

複数言語に対する意識や捉え方について、子どもを取り巻く全てを変化させる必要があるようです。ますます学習環境が重要になってくるでしょう。日本語教育に携わる者は複数言語教育について精通したほうが良いし、その実践者としてコーディネーターでありデザイナーとしての技量を問われてゆくでしょう。スローガンだけではだめで、実践し、かつアピールする、行動と日々の積み重ねが大切です。一人一人が全て別の言語背景や記憶を持っているということを理解していれば、子どもたちを十把一絡げに扱えないのは当然です。たとえばハーフで、しかも移動をさせられている環境下の子どもたちのアイデンティティは常に変容していて、心を支えるためには自分なりの軸をつくらなければなりません。子どもたちの声が届き、その声を受け止めることがいかにおざなりになっていたのかを認識するべきでしょう。子どもたちが語り、その声が届く体験、つまり自分の発した言葉を受け止めてもらえるということは、年齢に関係なく社会的に承認されるということにつながるのです。最適な学習環境とは、学校、家族、そして地域がこぞって一人一人の子どもに向き合うもののことにほかなりません。

川上先生は、1974年の日本語教育に掲載されたヘンリー・一美・早瀬さんのエッセーである、―南カリフォルニアにおける日系人の日本語教育について―もご紹介くださいました。「移動する子どもたち」の視点から複数言語の捉え方やあり方を深く考察しながら話が進んでいきました。「移動する子どもたち」を「経験」と「記憶」というキーワードで捉え、ことばとアイデンティティの確立に依っているのだという切り口が鮮やかでした。そしてそういう子どもたちの言語に対する中にさまざまな語りや思いがあることを理解することの大切さがひしひしと伝わってきました。日本に関連していえば、子どもたちが複数言語と向き合いながら日本語教育はいったい何ができるのかを真摯に考え、実行することが急務なのです。先生ご自身の海外生活からお子さんが移動する子どものモデルであったことが今回のテーマにいっそう説得力をもたせて胸に響いてきました。

懇親会で

懇親会で

今回参加なさった方はもちろん、参加できなかった皆さんも、複数言語教育について、その中での日本語教育の今後のあり方について、さらに深めて考えていくチャンスとなることを願います。

当日配布された資料 →  アクラス6月研修 配布資料

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