日本語教師として「古稀」に想うこと~専業主婦からの出発~

昨日、古稀を迎えました。これまで多くの方に支えていただきながら、日本語教師として楽しく活動してきました。そして、これからも「その時期・年齢」に合った形で、日本語教師を続けていきたいと考えています。そこで、来し方を振り返りながら、「専業主婦から出発した、一人の日本語教師の思い」を記したいと考えました。少しでも日本語教師という仕事のやりがい・面白さを知っていただければ幸いです。

 

■夢は「古稀で韓国の大学院に入学、朝鮮通信使の研究」でしたが・・・・・・

以前よく私のプロフィール紹介の際に、「大学卒業後、外資系銀行勤務。専業主婦を経て日本語教師となる」という表現が使われたもので

留学は叶いませんでしたが、古稀はソウルで、OPI仲間と迎えることができました。

留学は叶いませんでしたが、古稀はソウルで、OPI仲間と迎えることができました。

す。実は、私は十数年専業主婦をした後日本語教師の道に入りました。遅い出発で、スタート時には「もう少し早ければよかったのに・・・」と思いましたが、すぐに考え方を変えました。「これまでやってきたことが全て活きるのがこの仕事。『私にしかできない日本語教師』、オンリーワンをめざそう!」、これが私の出発点でした。

 

何年間かいくつかの日本語学校で非常勤講師をした後、1990年にイーストウエスト日本語学校に移りました。それは、韓国からの留学生が急増し始めた時期に当たり、「韓国の人の名前は原音で呼ぼう」と考えた私は、韓国語を独学で学び始めました。「ことばは文化」であり、韓国語を学ぶ中で韓国への関心は強くなっていきました。その中でも「朝鮮通信使」、さらには当時対馬藩の役人だった雨森芳洲に関心を抱き始めたのです。芳洲は、「隣りの国と交わるにはまず言葉を知ることが大切だ」と考え、命尽きるまで外国語を学び続け、「それぞれの国の文化に優劣、上下はない。国と国との関係は平等であり、お互いを尊重しなければならない」という考えで隣国と関わっていました。これは、国際交流の原点であり、まさに日本語教師として忘れてはならない視点だと思いました(結局は、日本語教師としてまだまだ仕事をしているため、「韓国留学計画」は幻となってしまいましたが・・・)。

バースデーケーキは、韓国ならではの「コグマ(さつま芋)のケーキ」です。とっても美味しかったです!

バースデーケーキは、韓国ならではの「コグマ(さつま芋)のケーキ」です。とっても美味しかったです!

 

 

 

■カウンセリングの勉強から生まれた日本語への関心

専業主婦だった私はずっと「いつか仕事をしたい」と考え、準備をしていました。そこで見つけたのがカウンセラーという仕事でした。そのために、心理研究所に通い、大学で心理学の聴講生をしていました。ある時、大学で英語のカウンセリングをビデオで見たのですが、普段のカウンセリングとの違いにびっくり!「なぜ違うのだろう?」と考えて分かったのが「クライエント(来談者)とカウンセラーをつないでいる言葉」が違うということでした。

そして、「私は母語である日本語をいったいどれだけ知っているのだろうか」という問いが沸き起こってきたのです。

 

アンテナを張っていると情報は入ってくるものです。ある日「日本語教師短期養成講座」という文字が飛び込んできました。こうして私は短い養成講座を受け、日本語教師として教壇に立つことになりました。「知識もない・経験もない・仲間もいない」(1か月の養成講座の受講生は3人。結局仲間は1年ほどで教師を辞めてしまいました)という私にとって、それからは楽しいながら大変な道でした。特に最初の1年間は、必死になって 勉強し続けました。この「無い無い尽くし」の出発が、仲間を大切にし、共に学ぶことを大切にした日本語教育をめざす原点となりました。また、カール・ロジャーズの「カウンセラーは無条件にクライエントを受容し、尊重することが大切。クライエント自身の中に解決する力があるのだ」という考えは、日本語教師としての柱となりました。

 

 

■同僚性と協働性を大切にした「学びの共同体」づくり

1990年冬のことでした。ビジネスマンを中心に教えている日本語学校と、主に就学生(現在は、留就一本化となり、就学生という言葉は使われませんが)を対象としている日本語学校で非常勤をしていた私は、同時に(1週間違いでした)2つの学校から「4月から教務主任をやってほしい」という話が舞い込みました。そして、悩み抜いて決めたのが就学生対象のイーストウエスト日本語学校であり、22年間勤めることになりました。決め手になったのは「恵まれた会社派遣のビジネスマンが多い学校」より、「苦労して学びに来ている就学生達」と共に歩みたいという思いでした。

 

いろいろな事がありました。経営者の経営方針に大きな疑問を感じ、「だったら、自分の学校を創ろう!」と思ったこともありました。自分の教育理念に沿った学校を創りたいと強く願いました。しかし、知人から「3年間、よく考えて、それでもやりたかったら始めたらいい。その間、できるだけ多くの人に会って、人的ネットワークを広げること」というアドバイスをもらいました。たどり着いた結論は、「私はずっと現場で教え続けたい。実践力を磨き、研究にも力を注ぎたい。今の学校の先生方と一緒にやっていきたい」というものでした。それからは、同僚性と協働性を大切にして、イーストウエスト日本語学校をしっかりとした「学びの共同体」にしていくことに力を注ぎました。

 

 

■大勢の仲間と一緒に、『できる日本語』開発への道へ

ある日、アルクのスタッフから「先生、新しい考え方の教科書を一緒に作りませんか」というお誘いを受けました。教科書作りは、本当

『できる日本語』12冊

『できる日本語』12冊

に大変な作業、私の答えは最初は「ノー」でした。ルーティンをこなしながら教科書開発をするのは土台無理な話だと思ったのですが、「プロフィシェンシーの考え方に基づく教科書」「学習者も教師もわくわくするような教科書」というキーワードに私の心はだんだん傾いていきました。こうして12冊の「できる日本語」シリーズが生まれました。今では、この12冊は、「私の家族」「私の宝物」になっています。

 

「自分のこと/自分の考えを伝える力」「伝え合う・語り合う日本語力」を身につけることを目的にした教科書です。日本語によるコミュニケーションの中でも「対話力」に重きをおき、人とつながる力を養います。(『できる日本語』P.2)

 

ここで1つお伝えしておきたいのは、「教科書は何であっても、教師の考え方一つで授業は変わる」ということです。『できる日本語 初級』が誕生したのは2011年4月ですが、私の実践は変わっておらず、ずっと以前からプロフィシェンシー重視の教育実践をしてきました(実践そのものは変わっていないのですが、『できる日本語』ができて、やりやすくなりました)。つまり、どんな教科書を使っても、「対話を大切にする」「学習者の持っているものを引き出す」といったことを忘れずにやっていくことが大切なのです。実践がうまく行かないときに、自らを振り返ることなく、「教科書が悪い」「学校のカリキュラムが悪い」と責任転嫁することだけは避けたいものです。

 

 

■すべてが「計画された偶然性」!

『できる日本語』が誕生し、順風満帆に見えた私の日本語教師人生ですが、大きな転機が訪れました。2011年12月1日、ずっと勤め続アクラスのロゴ(サイズ小)けることになっていたイーストウエストを、翌年3月で去ることが突然決まりました。これは、3.11が大きく影響していました。何の当てもなく辞めることになりましたが、私はどこまでも前向きに、「なんとかなる!」と走り始めました。すぐに研究所作りの構想が生まれ、場所の入手・名前の決定・社団法人の登録などに着手、後ろを向いている暇はありません。因みにアクラスとは、明日という意味のラテン語<Cras>に、フランス語の「また明日」<À demain>の「À」を付けたものであり、「どんなことがあっても、どこまでも明日に向かって!」という思いを込めて命名しました。

 

日本語教師の道に入って早30年、いろいろなことがありましたが、私はすべて「計画された偶然性(Planned Happenstance)」だと考えています。そして偶然を必然にする力こそ重要であり、それがキャリア形成に繋がっていくのではないでしょうか。「計画された偶然性」を唱えたクランボルツ博士は、さらにキャリア形成に大切なこととして、1.好奇心、2.持続性、3.柔軟性、4.楽観性、5.冒険心の5つを挙げていますが、常に忘れないでいたいものです。

 

日本語教師のセカンドステージになって早4年半、今私はとても楽しく、有意義な日本語教師人生を歩んでいます。大好きなイーストウエストを去ることになったのは辛いことでしたが、先生方とは毎週学校でお会いし、太い絆で繋がれています。また、本務校がない分時間ができたお蔭で、全国各地、海外にも足を延ばし、さまざまな方と「対話」を楽しむこともできるようになりました。古稀を迎えた私ですが、これからも「自分の色・味・香り」を大切にしながら、「人間接着剤」としての日本語教師でありたいと思います。

 

皆さま、これまで本当にありがとうございました!

そして、これからもどうぞよろしくお願い致します。

 

嶋田 和子

卒業式の日に、張立夫さんが詩を作って、プレゼントしてくれました。私の宝物です。

卒業式の日に、張立夫さんが詩を作って、プレゼントしてくれました。私の宝物です。

6 Responses

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  1. 嶋田先生、おめでとうございます。
    私が教務に関わることになったとき、面白いわよと励ましていただいたのが、昨日はことのようです。
    私も3.11を契機に学校を去りました。嶋田先生とは違い、今は日本語には関わっていません。ずっとご活躍の先生が眩しいです。
    どうぞお元気でご活躍されますように。
    遠藤康子

    1. 遠藤さん

      メッセージをありがとうございました。
      ご一緒に日本語学校について語り合っていた時代が
      懐かしいです。

      私はまだ日本語教師として走りまわっています。
      本当はほかの道に行くはずだったのですが・・・。
      「縁」というのは不思議なものですね。

  2. 古稀おめでとうございます。

    嶋田先生から多大な影響を受けました。
    今夏休みを利用して、介護職員初任者研修の集中講座を受けています。
    先日、大原学園で行われたワークショップにも参加しました。
    やはり、自分のやりたいのは介護に関する日本語なのではないかと思いました。
    もちろん、日本語教育も介護に関する知識も不十分です。

    先生の古稀を迎えての文章を読ませていただいて、すこし勇気づけられた気がします。
    「無い無い尽くしの出発」もあるのかもしれません。
    それに、授業でも「年齢は関係ない」と背中を押していただきました。

    古稀のお祝いなのに、自分のことを書いて済みませんでした。
    最後に一つだけ言わせてください。
    私も長年教師をやってきましたが、嶋田先生は本当に素晴らしい先生です。
    間違いなく最高の教師です。尊敬していますし、出会えたことを感謝しています。

    これからもお体にお気をつけてご活躍ください。

    1. 小林さん、メッセージをありがとうございました。着々と前に進めていらっしゃいますね。素晴らしい!「私の思い」が少しでもお役に立てたら幸いです。小林さんの授業中の真剣な眼差し、とても印象的でした!

  3. 嶋田先生
    今更で大変恐縮ですが、おめでとうございます。
    先生のお話を伺うと、間接的に答えをたくさんいただきます。
    自分がどうしたかったのか、どうすべきかのヒントをいただく気がします。
    読書した後のようです。
    これからもどうぞご指導よろしくお願いいたします。
    いつまでもパワフルでキラキラした先生でいらっしゃってください。

    1. 徳田さん、すてきなコメントをありがとうございました。私も、皆さまとお会いし、対話することで元気をいただいています。そして、それが次の原動力になっていきます。まだまだやりたいことがいっぱい!今後ともどうぞよろしくお願い致します。

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