西尾珪子先生を偲ぶ~ロールモデルとして先生を追い続け……~

AJALT(国際日本語普及協会)会長である西尾珪子先生が、8月15日にお亡くなりになりました。コロナ禍でお目にかかることも出来ないまま「お別れの時」が来てしまいました。

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国際日本語普及協会は1966年に西尾先生が宮崎茂子氏らと創設された外国人に対する日本語教育を行なう団体です。1977年には社団法人国際日本語普及協会となり、さらに2010年7月、公益社団法人に移行しました。     https://www.ajalt.org/

 

長年、さまざまな面でご指導いただいてきた西尾先生は、まさに私のロールモデルのお一人でした。日本語教育振興協会(以下、日振協)の評議員を務めていらした先生は、常に日本語学校全体のことを考え、社会に向け発信をし、関係者とともに行動をし、人々をつないでくださっていました。そんな先生のことを、日本語学校や日本語教育学会を軸として、少しお話ししたいと思います。

 

 

■日本語教育大会(文化庁)の分科会での出会い  ~日本語学校を軸にした対話の始まり~

 

文化庁では毎年「日本語教育大会」が実施されてきました。私は、1991年、日本語学校の教務主任となったことから、「どんなに忙しくても、日本語学校は外とつながっていなければいけない。無理をしてでも文化庁が行っている大会には出よう!」と、何とか時間を調整して参加することにしました。その当時は、新米教務主任で、しかも学校の立て直しに取り組んでいた時期でもあり、まさに寝る間を惜しんでの毎日でしたが、何としても「外の空気」を吸いたいという思いからの参加でした。

 

初めて参加した年のことでした。全体会議が終わって分科会となりましたが、私が参加した分科会の司会者は西尾珪子先生でした。まずは、西尾先生の見事な会議の進行に感動。「こうやって参加者を動かしていくのだ」と、大いに学ばせていただきました。

 

そんな雰囲気の中、新参者の私でしたが、「こんな時こそ、日本語学校の存在を知ってもらおう。少しでも理解してもらいたい」と、意見を言っていきました。その当時は、こんな声がよく聞かれたものです。

 

・えっ?日本語学校にお勤めなんですか。日本語を勉強する学校って……。

・ああ、語学学校ね。学校って、毎日あるんですか。

・どういう人が教えているんですか。

 

こうして「ほとんどの方が日本語学校の存在をよく分かっていない時期」に、私はひたすら発言をし、周りの方々とのコミュニケーションを図っていこうと努力を重ねてきました。そんなことを毎年繰り返していく中で、次第に西尾先生との対話も増えていきました。

 

日本語学校って、大切なんだけど、社会的に理解されていないのよね。

だから現場の人がどんどん意見を言っていかないと駄目よね。期待してるわよ。

 

お会いするたびに、温かい言葉をかけていただいていたのですが、ある日1本の電話がかかってきました。

 

 

■西から新しい風を起こそう! ~たった4人の「京都会議」の始まり~

 

1996年冬のことでした。突然西尾先生から自宅にお電話を頂戴したのです。

 

嶋田さん、一緒に≪京都で≫日本語学校のことを考えない?

心ある人達とじっくり話し合いたいと思って……。実は、

関西にすごい人が2人いるのよ。だから、4人で真剣に

「これからの日本語学校」のことを考える会を持ちたいん

だけど。でも、東京の時はいいけど、京都に行くとなると、

お金も時間もかかるから、申し訳ないわね。

 

私は、「西尾先生とご一緒に日本語学校のために何かできるのでしたら、どこにでも伺います!ぜひご一緒させてください!」とお返事をしました。何を、どう、誰とやろうとしているのかも伺う前に……。こうして私の≪私的京都出張≫が始まりました。

 

関西の「すごい人」とは、西原純子さんと奥田純子さんでした。4人で、熱く語り合い、泊りがけでの会合も何度か持たれました。「日本語学校は、このままではいけない!何とかしなければ!」という思いが、4人の胸の内から溢れ出てきたのです。

 

嶋田さん、いろんな改革って、なぜか西から起こってるのよねえ~~。

日本語学校の社会的な認知、これは現場と一緒に思い切ってやらないと・・・。

                     

こうして、4人で話し合った結果は、西尾先生を通して日振協に届けられました。そうしたことも少しは力になったのでしょうか、翌1997年には、日振協で、新しいことが複数スタートしました。

 

*日本語教育セミナー(通称「箱根会議」)

=各日本語学校の教育責任者が一堂に会して教育について話し合いをする会で、

第1回は箱根で開かれたことから、通称「箱根会議」と呼ばれています。

後に場所が京都に移ったことから「京都会議」となりました。

  *日本語教員研究協議会

=日本語学校の先生方にとって、気楽に実践研究を発表する場が必要である

という考えからスタートしました。2006年に「日本語学校教育研究大会」

  として再出発し、今も充実した内容で行われています。

 

 

■日本語教育学会にも新しい風を! ~大学関係者以外にも道を拓く~

 

1997年は、日本語学校が大きく前進する大切な年となりました。上述した2つのセミナー、協議会は今も名前を変えながら継続して実施されています。

 

同じ年の5月、西尾先生は、日本語教育学会の副会長になられました。「4人京都会議」で伺った西尾先生のお言葉は、今も忘れられません。

 

私が副会長になるのは、大学中心でやっている日本語教育学会では異例のこと。

大学以外では初めての副会長。もちろん「どうして?民間から?」などという声

も出ていたんだけど……。これからは、もっとさまざまな分野の人々が、みんなで

     活動していく学会になる必要があるのよね。私が道を少しずつ切り拓いていくから、

    みんなも頑張ってね。

 

それまで、「日本語学校の教務主任として、日振協で日本語学校の仲間と連携してやっていこう」と考えていた私は、日本語教育学会員ではあったものの、ほとんど参加したこともなく、学会は遠い存在でした。しかし、西尾先生の「道を少しずつ切り拓く」というお言葉をお聞きして、私の視野も少しずつ広がっていきました。

 

その2年後、私は突然、日本語教育学会の「評議員」に選出され、そこから、20年にわたる学会活動が始まったのです。それは、「西尾先生が切り拓いてくださっている道」を私も後ろからついていきながら、自分もまた後進のために道を切り拓いていこうと思って歩んできた結果でした。

 

こうして20世紀は終わり、新しい世紀を迎えることになりました。その後も、さまざまな形で西尾先生と「対話」を重ね、学ばせていただきながら教師人生を続けてきました。もっともっと教えていただきたいことがありましたが、これまでのご縁に感謝し、ご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

■西尾先生の背中を追いかけたい! ~私のロールモデルとしての西尾先生~

 

ロールモデルとしての西尾先生に出会ったことが、私の日本語教師人生を大きく変えてくれました。たくさんのお言葉が残っていますが、ここでは、6年前にいただいた先生のメールを2つご紹介したいと思います。

 

♬ ♬  メールの中の西尾先生  ♬ ♬

 

浜松駅新幹線のコンコースにはいつも素晴らしいピアノが置いてあります。そして、みんなが思い思いに、ピアノと向き合うことができるのです。

浜松駅新幹線のコンコースにはいつも素晴らしいピアノが置いてあります。そして、みんなが思い思いに、ピアノと向き合うことができるのです。

<2015年1月9日>

 

嶋田さん、浜松の素敵な光景、朝一番に開けた貴方のメールを読んで、すがすがしい気分になりました。そして、ふと、忘れていた30年前のロシア(当時ソ連)で出会った或る光景を思い出し、その時の感動が蘇ったのです。それは、公務の出張で、サント・ベテルスブルグ(当時のレニングラード)での感動です。夜、やっと仕事が終わって是非本場のバレエを見たいと昼から思っていた私は大劇場の切符売り場に並んで、やっとあこがれの切符を手にしました。ワクワクしながら座席について驚きました。劇場の座席にはあちらこちらに家族できている人達が目立ち、小さな3,4歳の子供までが静かに開演を待って居ます。’うわ-、夜なのに子供が多いなあ’と驚いていた私は、演奏が始まって、もっと驚きました。その子供達が、一人として声を上げたり、走り回ったり、泣いたりせずに、終演まで、大人しくだまって、しっかりと舞台をみつめていたのです。

 

えっ?これが何で浜松と関係あるの?と思われるでしょう。

さすがロシア!こどもの時からクラシック音楽に馴染み、一家で静かに芸術を鑑賞する習慣が付いているのです。帰り道に、通訳の人が、ロシアの習慣をいろいろ教えてくれました。芸術に対する尊敬の念、子供の時から文化に浸る習慣が出来ていくのです。

 

AJALT39号の表紙スキャン

<2015年11月13日>

 

嶋田和子様 どうしてもメールが巧くいかず、遅いお知らせになりました。ごめんなさい。
先ず、キーン先生への取材について、お口添えいただき、有り難うございました。
早速機関誌AJALTからの御願いをご回答くださり、一同ほんとうに和子さんに感謝致しております。

編集部一同歓声を上げて喜んでおります。有り難うございました。本日誠己様にお電話する予定にしております。さて、上記のお礼がまず第一であり、この次に書く事に驚かないでください。
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私、高齢化に伴い、老人病が迫って来て、とうとう公職を続けることが出来なくなりました。
それで、結論を申し上げますが、昨日、日振協の諸役を総て辞職させていただきました。

きっかけは去る11月2日の夜の脳梗塞でした。佐藤次郎理事長とは、随分ご相談に乗
っていただきましたが、医師の診断書もお見せして、私が、このまま重要なお役を継続
することが、出来ない事をご理解いただき、御納得いただきました。万感胸に迫るモノ
との闘いが数日続きましたが、「責任」という事を深く考えて、決心が付きました。佐
藤理事長と二人で、日振協設立の日のひな壇に並んだ日のことを思い出し、万感迫るも
のがありましたが、これ以上もうろうとした意識を取り戻すことが不可能と考え、辞職
願いをお渡ししました。思い出すほど涙に溺死しそうになりましたが、私の最後の責任
のとりかただと思い、勇気を持続しました。

嶋田さん、私、死んでから口もきけずにお別れするより、未だ理性があるうちに、今ま
でのお礼を心の底から申し上げてお別れした方がお互いに悔いがないと思ったからです。

お許し下さい。

これからは最後のステージでゆっくりと、ぼんやりと、穏やかな日々を過ごしていき
たいと思っております。西尾珪子拝

 

 

■「日本語学校の教育」の質を上げよう!

    ~ゴールデントリオ<水谷修×西尾珪子×佐藤次郎>の取り組み~

 

2002年4月から5月にかけて「ドキュメント挑戦 日本語教育の新世紀」が連載されました(日本経済新聞夕刊:全23回)。記者の勝又美智雄さんは、日本語教育の現場で活動する人々を訪ね、対話を重ね、時にはシンポジウムに参加して、取材を続けました。その第18回「地域・人ごとに指導法伝授」では、西尾先生の活動が記されています。勝又さんに許可を得ましたので、記事をアップさせていただきます。

 

 追記:田中祐輔さんが、西尾先生のインタビュー動画をアップなさいました(2021.8.31)。田中さんに許可をいただきましたので、ここにURLをアップさせていただきます。西尾先生の語り口、懐かしいですねえ~~~。

  https://youtu.be/HrFOVsK73iU

ドキュメント挑戦⑱西尾先生

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