3.11の夜、地域住民から温かいサポートを受けた高校生たち(タイ&韓国)~イーストウエスト日本語学校の事例から~

東日本大震災は大きな被害をもたらし、10年経った今なお、大変な生活を強いられている方もいらっしゃいます。大切な方を亡くされた方は、いつまで経っても、消えることのない辛い思い出となっていることを思うと、胸が痛みます。

亡くなった方      15,899人

行方不明の方        2,526人

震災関連で亡くなった方   3,775人

避難生活を続けている方 41,241人

住宅の全半壊       405,117戸

※2021.3.11朝の報道より

 

10年前の「あの日」を振り返りながら、日本語学校を支えてくださる地域住民の方々への感謝の気持ちを表したいと思います。地震が起こったのは、14時46分、ちょうど午後の2時間目の授業が行われている時でした。先生方は、決められた公園に学生たちを連れ、収まったところで、自宅に返しました。

 

実は、イーストウエスト日本語学校には、数日前に日本に着いたばかりの高校生11人(韓国、タイ)がいました。彼らは、4週間、日本語学校で日本語を勉強した後、全国の高校に分かれて約1年間、勉強するというプログラムでやって来ていました。そして、彼らはなんと午前中に、授業の一環として「池袋防災館」に出かけ、しっかり防災について学んでイーストウエストに戻って来たところだったのです。

 

イーストウエストの学生さん達と一緒に公園に避難し、学校に戻ったものの・・・・・・。来日したばかりなので、こんな非常事態下で、一人でホストファミリーのお宅まで帰宅することは、とても心配です。そこで、ご近所と相談をし、近くにある宮二町集会所を貸していただくことにしました。とはいえ、この集会所は宿泊禁止なので、お布団類は一切ありません。そこで、あるだけのお座布団を敷いて、コートをかぶって11人で寝ることにしました。

 

すると、しばらくすると、ご近所からたくさんの毛布が届けられたのです。高校生たちは、どんなに嬉しかったことでしょう!さらに驚いたことに、朝になると、おにぎりとペットボトルに入ったお茶が人数分届けられました。高校生たちは、大感激!イーストウエストの先生方も、うるうる~~~。このことに関しては、タウン誌『おこのみくす』に記事がありますので、どうぞご覧ください。

 

さまざまな点で、地域住民に支えられて日本語学校があることは、幸せなことだとつくづく思います。3月11日という日を迎えるたびに、毛布の暖かさ、「おにぎり」を握り、お茶を運んでくださった方々の温かさを思い出している私です。

 
ここで、当時、高校生の日本留学プログラムの責任者だった「照井睦さん」から頂いたレポートをご紹介したいと思います。この記事を書くにあたって、当時の高校生たちの様子をもう一度鮮明に思い起こしたいと、照井さんにご連絡をしたのです。

 

     ◆     ◇     ◆

 

照井 睦さんのレポート(2021.3.10記)

タイからの8人、韓国からの3人の高校留学生は、2011年3月5日(土)に来日しました。緊張の中、来日当日にホストファミリーに引き取られて週末を過ごし、7日(月)からは、日本語研修受講校であるイーストウエスト日本語学校に通学を始めました。

3月14日 の 夜 、 照井 さんが 送った メール です。 11人 の 高校生 を 一時帰国させるために、 必死 に 手配 をしてい ら っしゃる 様子 が 分かります 。

3月14日 の 夜 、 照井 さんが 送った メール です。 11人 の 高校生 を 一時帰国させるために、 必死 に 手配 をしてい ら
っしゃる 様子 が 分かります 。

 

そして11日(金)は、研修の必修プログラムである、池袋の防災館を訪れ、地震、火事、水害の防災訓練を受けました。 13時過ぎに、引率した職員から事務所にいた私に電話が入り、「防災訓練が無事に終了、ランチも済ませました。ホストファミリーへの帰宅ももう慣れたので、池袋で解散していいでしょうか。」 私の返事は、 「いえ、3時までは研修時間なので、イーストウエストに戻って自習させ、いつも通り、3時に解散してください。」

 

そして戻った教室で自習をしていた14:46、まさに防災館で体験した揺れが襲って来たのです。 引率者は、防災館で習った誘導方法を即座に思い出して、先生方と共に生徒たちを近くの公園に誘導したそうです。 その後の展開は嶋田先生のご報告通りです。 よりにもよって、防災館訪問直後! 解散を早めずに、学校に戻して良かったです。

 

3月11日夕刻には、タイ、韓国の11人の留学生が中野の集会所に泊まらせて頂くとの報告に一安心し、 それぞれの送り出し元団体にメールをしました。 メールボックスには、朝起きて日本のニュースを見た、フィンランド、スウェーデン、ドイツからのメールがどんどん入ります。メディアの速さと生々しさで、まるで日本列島全体が津波に襲われたと思った保護者がパニックしていると。

この時、来日したばかりのタイ、韓国の生徒とは別に、前年の9月からこの年の6月までを留学期間とする、ヨーロッパからの18人の高校生が日本各地に滞在していました。 ほとんどがテスト休暇でこの日は登校していませんでした。全てのホストファミリーに無事の確認の電話をしました。 18人は東京、神奈川、千葉、浜松、名古屋、熊本で留学生活のラストスパートに入っていた時期でした。

 

しかし本国からは帰国命令が出て、次々とフライトの手配がなされ、私はそれに合わせて、成田空港までの交通手段の確保に必死でした。東京駅近くのホテルに泊まり込み、各地からの生徒を受け止めては、成田空港行きのリムジンバスに乗せました。全員を本国に送り返し終わり、私が自宅に戻れたのは、17日でした。

 

帰国したタイの高校生から照井さんに宛てたメールです。こんな温かいメールのやり取りが、帰国した大勢の高校生と続いたそうです。

帰国したタイの高校生から照井さんに宛てたメールです。こんな温かいメールのやり取りが、帰国した大勢の高校生と続いたそうです。

留学生達はあの日に体験した日本の東京の中野の皆さんの温かさを一生忘れないはずです。 この生徒たちとニッポンを心配して、そして励ましてくれたのは親御さんだけではなく、その前の留学生の先輩達でした。私にメッセージをくれたたくさんの人全員に、あの中野の町内会の皆さんに助けられた、夜から朝までの出来事を伝えました。

 

来日直後に災難に見舞われた11人は、5月には全員が戻ってきて、頑張っているニッポンの一員となり、12月までの高校留学生活を全うすることができました。

 

※「高校生プログラムと日本語研修」についての説明

高校生の10か月留学プログラムでの日本語研修をイーストウエスト日本語学校が担当するようになったのは、もう30年以上も前のことになります。2週間コースのこともあれば、4週間コースのこともありました。それぞれ自国では様々な形で学んできた日本語をこの期間に整えて、日本各地での高校生活に入ります。 10か月後、帰国前のこの子たちの日本語たるや、見事に上達しています。敬語から若者言葉まで自由に操り、巧みな日本語でメールが来ます。 そして、いつまでも日本と日本語を忘れないステキな国際人ネットワークとなって地球をネットで覆っているように感じます。

◆     ◇    ◆

『おこのみっくす』Vol.15に載った記事です。
震災で知った「ご近所の温かさ」

表紙15号

 

 

 

 

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