地域とともに歩む「第12回日本語スピーチコンテストin Niigata」

6月6日、新潟にあるNSGカレッジリーグ国際事業推進部主催「第12回スピーチコンテスト」が行われました。タイトルは「情熱『夢をかなえる力―ここから未来へ』、実施会場は700人収容の「りゅーとぴあ劇場」でした。

スピーチコンテスト

スピーチコンテスト

なんと応募者は340名、その中から選ばれた出場者17名によるスピーチは迫力満点。12年前、小さなコンテストから始めたスピコンは、関係者の工夫と努力によって、大きく立派なイベントへと成長していきました。

 

 

■審査員の多様性

このスピーチコンテストの特徴として、審査員の構成の特殊性が挙げられます。9人の審査員のうち、日本語教育関係者は私1人、あとはすべて県や市の国際交流協会、新聞社の方、アナウンサーの方など日本語教育に直接関係のない方々で構成されています。「日本語のスピーチだから、日本語教育関係者が審査をする」というのではなく、「地域社会の方々に参加していただき、外国人の日本語スピーチに触れていただきたい」という姿勢に、私は心を打たれました。担当の先生は次のように話してくださいました。

 

「毎年、このイベントを楽しみにしていてくださる市民の方もいらっしゃるんですよ。今年はどれだけの方が来てくださるでしょうか。今から楽しみです」

 

<発音/表現/内容>の3つの柱をもとに項目が立てられ、重みづけもしっかりなされた評価表、それは「一般の方が少しでも評価しやプログラム①すいような審査基準を・・・」という思いと長い経験に基づいて作成されました。「現場の知恵」の素晴らしさを改めて感じさせられました。

 

 

■出場者の多様性

 

17名の出場者は、日本語学校・専門学校・大学の学生さん達、会社員や主婦の方などさまざまな方がいらっしゃいました。さらに出場者の居住地も新潟県内だけではなく、福島、神奈川、千葉、大阪と多岐にわたっていました。

 

また、出身国・地域は、「中国、韓国、モンゴル、ベトナム、ネパール、タイ、アメリカ、サウジアラビア、ロシア、トーゴ」の10か国に及びました。懇親会の席上トーゴ出身のアクエテビさんからこんな話を聞きました。私にとってトーゴ出身の方とお会いするのは初めての体験でした。

 

「先生、トーゴからの留学生は、もちろん新潟県じゃ私一人ですよ。実は、日本全体

でも30人しかいないんですよ。私は11人兄弟プログラム②で、双子の兄がいます。兄は、今東京の大学に通っていて、9月から日本の会社で働くことになっています。二人とも日本が大好きですよ」

 

 

■多様な地域社会とのつながり

このスピーチコンテストでは、「オープニングアクト」として新潟小学校万代太鼓部による演奏がありました。「大ばち」「小ばち」「笛」「たる」の4つの楽器を使って、5,6年生の部員が心を一つにした見事な演奏を披露してくれました。演目は「新潟甚句」「佐渡おけさ」「躍進太鼓」の3曲、こうした素晴らしい地域文化に触れ、それを継承していく小学生の姿に感動しました。

 

スピーチ終了後審査をしている間には、「スペシャルライブ」として「琴源と大正琴新潟友の会」が演奏、また「アトラクション」として「超耕21ガッター」が登場、観客を楽しませてくれました。審査員はこの間審査に集中しなければならず、残念ながら見ることは出来ませんでしたので、プログラムにあった紹介文を記すにとどめます。

ネパール募金コーナー(学生達が作りました)

ネパール募金コーナー(学生達が作りました)

 

<琴源と大正琴新潟友の会>

日本で作られた唯一の楽器「大正琴」を、目下、海外にも広めようという運動をしています。

大正琴を通して異分野交流世代間交流を推進し、来年は、全国、海外を巻き込む「世界大正琴交流大会琴

オリンピック新潟」を開催します。

 

<超耕21ガッター>

新潟の情熱!超耕21ガッターがりゅーとぴあに参上!

愛をコメたヒーローは、トキを超えてやってくる!

新潟小学校太鼓部(リハーサル前)

新潟小学校太鼓部(リハーサル前)

 

 

では、最後に入賞した方から頂いた「声」をお届けしたいと思います。

(スピコン終了後の懇親会で「記事に載せたいので、ご自分の思いをメールで送っていただけませんか」とお願いしたところ、お三方ともすぐにお返事をくださいました)

 

 

♪   ♪   ♪   ♪   ♪

 

◆最優秀賞の李艶(リ エン)さん~就職先に新潟を選んで良かった!~

 

私の出身地は中国のハルビンです。
新潟市とハルビン市は昭和54年12月から友好都市を提携し長い間とても仲よくしてきました。特にハルビンにいる私のような朝鮮民族はほとんど中学校の時から日本語の授業を受けてきて、小さい頃から日本の文化にとても興味を持っています。高校1年生のときに、日本語の作文コンクールに初めて参加し、日本にプチ訪問することができました。

 

最優秀賞の李さん(中国)

最優秀賞の李さん(中国)

初めての外国、生まれて初めてみた海、目的地はまさにいま私が暮らしている新潟でした。国際情報高校を訪ねたり、リームハウスの体験をしたり、日本の高校生と一緒に授業を参加したり、たったの1週間でしたが、小さい頃から興味を持っていた日本の文化と、日本人の方と触れ合い教科書で習った以上ものを自分の目で確かめることができました。この経験は自分の成長にとてもいい影響を与えて、その時から日本との深い縁を感じました。

 

そこから6年後、私は中国延辺大学の日本文化教育学部を卒業し、再び新潟に、新潟県上越教育大学院にきて修士過程の勉強を始めました。
大学院の三年間、たくさんの優しい日本人の方に出会えて、助けてもらい励まして応援してもらいました。精神的に体力的に辛い日々もありましたが、沢山の日本人の方に支えられ、かけがえのない日々をすごすことができました。

 

新潟の海、新潟の酒、新潟の米、新潟の素敵な人々に恵まれて、貴重な日々をすごし、大学院卒業後、私は日本の社会についてもっと学びたく、日本で就職することを決めました。友人もみんなそれぞれの道を歩み、多く新潟を離れていきました。
東京にある大企業からの嬉しいオファーもありました。
しかし、私はどうしても新潟との「情」を「絆」をここに留めることができず、就職先も迷わず新潟を希望しました。

 

面接の際、いろんな方に「なぜ新潟で就職しようと思ったのですか」と聞かれました。
正直そのたびに、新潟との縁は一言ではとても話しきれないほど、長い歴史があるので
いかに簡潔にまとめるかに少し苦労はありました。ただ、今になってもはっきり言えるのは、新潟を選んだことに少しも後悔はありません。
新潟との絆をいまも続けていけていることを誇らしく思いますし、ハルビンと新潟との友好関係にも少しでも力を注げられたらと思い、国際交流の活動にも積極的に参加しています。

 

もっと多くの方にハルビンと新潟をPRするために、もっと多くの方に国際交流に興味を与えるために、これからも自分を磨き続け、第二の故郷ー新潟で頑張っていきたいと思っています。

 

 

◆優秀賞の高洋(コウ ヨウ)さん~第二の故郷「上越」との絆~

 

私は中国山東省の済南市の出身です。

私は3年前、大学4年生の時に初めて日本に来ました。当時、日本政府の奨学金のおかげで、経済的には心配なしで留学生活を過ごしてきました。

優秀賞の高さん(中国:真ん中)とアクエテビさん(トーゴ・右)

優秀賞の高さん(中国:真ん中)とアクエテビさん(トーゴ・右)

しかし、留学先は上越教育大学のキャンパスが上越という寂しい田舎にあるので、毎日うっとうしい空の下で暮らしており、本当の気持ちはどうしても家族に打ち上げることできず、うつ病になりそうでした。大変な一年間はいろいろ経験して、人生の節目として、生活は中国から日本まで変わってきました。

そして、一年間の交換留学を終えて、ここまで上越で築いた人間関係を考え、続いて上越教育大学の大学院に入ることを決めました。今年は日本に来た三年目になっているので、なぜ上越の天気が大嫌いなのに、上越を決意したのかを振り返ってみると、その理由は分かりました。潤いのある上越は私の第二故郷だと思い始めました。

夜道を歩いてけがをしてとなりの住民の方に聞かれて急バンを持ってきてもらったり、その時の私は、痛みを忘れ、言葉が出ないほど感動しました。

バイト先のおばあちゃんにお世話になって、バイトを辞めた後で、そのおばあちゃんから「高さん最近どう?あたしはさ、高さん生肉が苦手って知ってるから、恵方巻を作ったの、ぜひ取りに来てね」と電話されました。素朴な話で日々私のことを心配しているおばあちゃんはなんと自分の祖母の存在だなと思って、上越を出たら、これ以上やさしい人はいないんじゃないかなと、上越とのキズナはこの時できました。

日本の有名な童話作者宮沢賢治が書いた『雨にも負けず』という詩があります。私は、上越で三年間、これから九か月生活をしていかなければなりません。上越の天気はいくら嫌いだとしても、負けず嫌いな性格のおかげで雨にも負けず、雪にも負けず頑張ってきましたが、しかし、人間は感情を持つ動物だと言われているため、私は上越のやさしい方々に負けてしまいました。(笑)

私は今現在、日本の就職活動に取り組んでいるところなので、日本という国とのキズナをもっともっと見つけていこうと思っています。だから、将来の仕事、国際交流の活動やイベントなどを通し、中日の国際交流を狙って自分の人生をさらに充実させていきたいとも思っています。

 

 

◆奨励賞の金淑姫(キム スクヒ)さん~勉強するって、楽しい!~

 

私は韓国の南で生まれました。50年代の韓国は貧しくて、6人兄弟の長女でした。中学校を卒業して工場で働きながら、夜間高校を卒業しました。そのとき一つ気が付いたことがあり、それがこの貧困から逃げ出すには勉強しかないと考えました。勉強するには金が必要だと工場の退職金で文房具屋を開いて姉妹たちをソウルに転学させ、今は大学の先生などみんな成功し一人前になりました。

奨励賞の金さん(韓国)を囲んで

奨励賞の金さん(韓国)を囲んで

私が日本に来たのは12年前です。長岡で韓国食材店を開き、日本人男性と結婚しました。それなりに幸せでしたが、3年前に夫が亡くなりました。そのとき金のために走り続けてきた自分に気づきました。自分に聞きました。どのぐらい命が残っているか、75歳かな、三分の二が過ぎたことです。人間の欲はきりがないし、何ができなかったか考えてみたら勉強でした。取りあえず、いま日本にいるから日本語だと、日本語学校に入学しました。日本語学校の生活は簡単ではなかったです。ひらがなから始めた私にとって、20歳くらいの子供たちの競争は私にとってカルチャーショックで大変でした。でも先生たちの助けがあって、だんだん学校の生活になじみました。

今も忘れないことは日本語を勉強して一年ぐらいで村上春樹さんの短編が読めるようになりました。その時の感動は今も忘れられません。私が外国の字で本が読めたことで一週間ぐらい胸がドキドキして寝られなかったです。それで恋愛より楽しいものが勉強だと気づきました。

私は今新潟国際情報大学1年生です。新しい学問やパソコン、英語まで勉強しなければならないので忙しいです。私の大学は2年2学期にアメリカやカナダ、韓国、中国、ロシアなどに留学する制度があります。それぞれの国に行って、言語を勉強させる制度です。私はアメリカに英語の勉強に行くつもりです。できれば大学院に進学するつもりです。長い時間の計画は立てられないですが、チャレンジします。私の人生の中で今が一番幸せです、亡くなった夫には申し訳ないですが・・・。

一期一会という日本語のことわざがあります。他人ではなく自分に向けて10年後、20年後の素晴らしい自分に会いましょう。

スピーチコンテスト集合写真

スピーチコンテスト集合写真

 

 

 

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