『梅里雪山 十七人の友を探して』の中国版が出ました!

小林尚礼さんが書かれた『梅里雪山』が出たのは2006年2月、私はその直後、小林さんとお会いする機会を得ました。

まずは、『梅里雪山』について、「山と渓谷社」のサイトから引用したいと思います。

http://www.yamakei.co.jp/products/2807280650%20.html

 

『梅里雪山』の日本版

『梅里雪山』の日本

1991年、京都大学と中国の合同登山隊が、中国のチベット自治区と雲南省との境 にそびえる梅里雪山(メイリーシュエンシャン)6740メートルの初登頂を目指した。しかし、17人の隊員全員が死亡するという登山史上最悪の遭難となってしまう。日本の登山史上最悪の海外遭難をあらためて振りかえると共に、この遭難を通して見た梅里雪山、そしてその山を聖山と敬う山麓に住む人々の写真と文章で描きます。これまでの、そして、これからの海外遠征登山のあり方を考えさせられるエポックな1冊。

 

ある会合で小林さんのお話を伺う機会があった私は、小林さんの考え方、生き方に深く感銘を受け、さっそく『梅里雪山』を買って読みました。そして、私は、「そうだ!ぜひ留学生達に、話をしていただきたい」と考え、小林さんにお願いメールを出したのです。こうして、イーストウエスト日本語学校の上級クラスで授業をしていただくことになりましたが、授業に関しては以下の記事をご覧ください。留学生の感想も載っています。

(1回目の特別授業=2006年度、2回目の特別授業=2009年)

 

   「山の写真家」小林尚礼さんの生き方に感銘「進む勇気」をもらった留学生たち

http://www.nihongohiroba.com/?p=526 (2009年11月20日)

 

 『梅里雪山―十七人の友を探して』、文庫本に!

    http://www.nihongohiroba.com/?p=944(2010年11月15日)3 『できる日本語中級』

こうした日本語学校での授業実践を踏まえ、『できる日本語中級』   20課「豊かさと幸せ」では、「タスク4<見つけた>(p.264)」として小林尚礼さんと『梅里雪山』を取り上げました。この教科書が出て8年となります

『できる日本語中級』20課「豊かさと幸せ」タスク4

『できる日本語中級』20課「豊かさと幸せ」タスク4

が、小林さんの生き方は、多くの日本語学習者に、「幸せとは何か」について深く考えるきっかけを与えてくれています。

 

 

あれから十数年が経ちました。そして今、中国で『梅里雪山』が出版されたと伺い、感慨深いものがあります。そこで、ぜひ『梅里雪山』のこと、新たに出版された中国版のことを知って いただきたく、小林さんからメッセージをいただくことにしました。『できる日本語中級』を使っていらっしゃる先生方は、どうぞ小林さんからの新たなレポートもご活用ください。

 

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『梅里雪山』中国版の出版で思うこと

        小林尚礼

 

イーストウエスト日本語学校で2回お話をさせていただいたことは、今でもよく覚えています。お話をしたあとに、生徒の皆さんが一人ずつ手紙を書いてくれたからです。一生懸命書かれた文章を読むと、自分の人生や留学生活と重ね合わせて真剣に考えて書いたものが多く、お話ししたことから確かに何かが伝わったのだと嬉しくなりました。

 

『梅里雪山』中国版

『梅里雪山』中国版

そのときお話しさせていただいた梅里雪山での体験と写真をまとめた本が、このたび中国語に翻訳されて出版されました。嬉しいことにカバーや各章の扉には、中国語とともに日本語が併記されています。

 

日本人の僕が中国雲南省の奥地で活動できたのは、現地の村人を始めとした中国の人々が協力してくれたからでした。そして翻訳書の出版においても、多くの中国の知人友人に支えていただきました。特に、初めて現地に滞在した年に山麓の村で出会った人類学者は、その後も現在まで20年以上交流が続いて、今回の出版のためにも大きな力を貸してくれました。出会ったときにこうなるとは思いもしませんでしたが、縁というのは予期できないものだとつくづく思います。

 

また、現地の村で遺体の捜索活動を一緒にしてくれた村長とその家族との縁も、僕の宝物になりました。村長との友情はもちろんですが、彼の娘が2008年に来日して日本語学校で日本語を学び、京都の同志社大学に入学したのもその大きな理由です。彼女の卒業式には村長を日本へ招待して、1カ月滞在してもらいました。それ以来彼は日本が好きになったと言ってくれます。村長の娘は卒業と同時に京大山岳部の後輩と結婚して、子どもを2人産み、いまは日本で暮らしています。17人の遭難は悲しい出来事でしたが、彼女の家族が私たちと梅里雪山の懸け橋になって、末永く交流できるようになるのは奇跡のような出来事です

 

また数年前には、上海の映像メディア会社が梅里雪山に関する僕のインタビューを撮影して、インターネットで公開してくれました。すると中国の多くのメディアから連絡が来て、さらに多くの紹介をしてくれました。それらが今回の出版のきっかけにもなりましたし、これから実を結ぶかもしれない活動にもつながっています。遺体を家族の元にお返しする使命感と、聖山への関心のために続けてきた活動が、中国の人々にも共感してもらえることを知って、中国人と 捜索を始めたころはおぼつかない筆談でやり取りした中国語ですが、最近は生活のための会話には困らなくなり、出版契約の交渉も電子辞書を引きながらメールでできるようになりました。ですが、僕には忘れられない体験があります。まだ外国人が珍しかったころに、村長がチベット人の小さな村に素性の知れない僕を住ませてくれたのは、その前年の捜索活動で山奥のキャンプ地のごみ拾いを僕が最後までやっていたからだそうです。そんな村長の人間性を僕も信頼して、言葉はほとんど通じないのに危険な氷河の上を2人だけで歩きました。

本のページ

本のページ

 

聖山への登山

聖山への登山

言葉はもちろん大切なのですが、人が人を信頼するには言葉だけではない何かが必要なことがあるということを教わりました。そんな梅里雪山とその山麓の人々に、『梅里雪山 十七人の友を探して』の中国版を捧げます。

 

日本と中国

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